4話:裏切りの証明
侍女長リオラ。それがあたしの表向きの名だ。
本当の仕事は、影に潜み、見て、聞いて、報告すること。今夜もまた、その務めを果たす。
城の東棟。人気の少ない廊下の暗がりに、あたしは石像のように息を殺していた。
壁の燭台の炎が、隙間風に揺れる。濡れた黒髪が微かに照らされるが、通り過ぎる衛兵でさえ、ここに人がいることに気づかない。
幼い頃から叩き込まれた術だ。自我を消し、呼吸を壁の染みと同化させる。
殿下の命は明確だった。
セドリックにだけ嘘を伝えろ。『王は死んだ』と。
そして、その嘘がどこへ流れるか見届けろ。
それは、信頼すべき部下を罠にかける酷薄な命だった。
だが同時に、国を守るための賭けでもある。あたしはただ、任務を遂行する。
待つ。ひたすら待つ。
◇ ◇ ◇
カツ、カツ、と乱れた足音が響いた。
セドリックが、殿下の私室から飛び出してきた。雨に濡れた重いマントを翻し、その顔は蝋のように白い。額には脂汗が滲み、視線が泳いでいる。
長年仕えた主の死を聞いた悲しみか。
それとも、主を売る好機を得た歓喜の震えか。
あたしは音もなく影から抜け出し、彼の背後を追った。
セドリックは自室には戻らなかった。
周囲を警戒するように何度も振り返りながら、城壁の物見櫓へと向かっている。人目を避ける足取り。だが焦燥に駆られて早い。
やはり、黒だ。
胸の奥で、失望と殺意が冷たく混ざり合う。
セドリックは城壁の一角、雨風が吹き荒れる暗がりで立ち止まった。
震える手で懐から小さな手鏡を取り出す。そして、近くの松明の火を反射させ始めた。
チカ、チカ。
頼りない光が闇夜に瞬く。
光の合図だ。
城門の封鎖中に、門の外で待機している帝国軍へ情報を送るための、古典的だが確実な密通手段。
あたしは雨に打たれることも忘れ、その一部始終を闇の中から見届けた。
点、点、線。点、線、点。
暗号の内容までは読み取れない。だが、それで十分だ。
セドリックは、殿下から聞いたばかりの「特大の嘘」を、即座に帝国軍に流した。自らの国の王が死んだという誤報を、敵に売り渡したのだ。
裏切りが確定した。
あたしは影のように城壁を離れた。報告しなければならない。この国に巣食う癌の正体を。
◇ ◇ ◇
セドリックの合図から、わずか十五分後。
ブォオオオオッ——!
腹に響く帝国軍の進軍ラッパが、夜の静寂と雨音を無遠慮に切り裂いた。
「日の出まで待つ」と言った千人長が、約束を違えて門を激しく叩いている。
「開門! 開門せよ! 公王崩御の報を聞いたぞ! 混乱に乗じた教皇国の簒奪を防ぐため、我が帝国軍が城内の治安を維持する! 門を開けよ!」
門塔の上。あたしは殿下の傍らに控えていた。
雨に打たれる殿下の顔には、怒りも焦りもない。ただ、獲物が罠にかかった瞬間を見届ける冷たい確信だけがあった。
罠が、完璧に作動した。
「……崩御? それは異なことを」
殿下が、眼下に群がる帝国軍を見下ろした。よく通る声が、雨音を貫いて響く。
「誰がそのような嘘を。父は今、私の手厚い看護のもとで、安らかに眠りについている」
松明に照らされた千人長の顔が、強張ったのが見えた。
「……なんだと」
「千人長。貴公にだけは特別に、父の健在を『確認』させてやろう」
殿下の口元に、氷のような微かな笑みが浮かんだ。
「ただし、供は認めん。貴公一人だ。武器を捨て、丸腰で来るがいい。皇帝の名代として恥じぬ振る舞いができるならばな」
◇ ◇ ◇
公王の寝室。
濡れた鎧を脱がされ、剣を衛兵に預けた千人長が、アラリックとその部下たちに囲まれながら入ってきた。武器を持たぬ彼は、心なしか一回り小さく見える。
あたしは部屋の隅、影に溶け込むようにして立っていた。
豪奢な天蓋付きの寝台。
そこには、魔法的な浄化によって肌の黒い変色が消え、穏やかに眠る公王エドワード三世の姿があった。胸は規則正しく上下し、頬には微かに赤みが差している。
死の気配など微塵もない。
「……確かに、生きておられる。しかし、この深い眠り方は……」
千人長が、不審そうに公王に近づこうとした瞬間。
殿下が彼の前に立ち塞がった。
「そこまでだ。万能薬は私が預かる。だが、ご覧の通り今は必要ない」
殿下の瞳が、鋭い矢のように千人長を射抜いた。
「それよりも千人長。一つ聞きたい」
一歩、歩み寄る。
「貴公は、私が『セドリックにだけ伝えた嘘』を信じて、これほど早く動いた。夜明けを待つという約束を破棄してまで」
千人長の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
自分が嵌められた論理の檻に、今さら気づいたのだ。
「つまり、貴公らの手駒は、我が国に無益な混乱を招くだけの『質の低い、口の軽い男』だったということだ」
沈黙が落ちた。
暖炉が爆ぜる音だけが、千人長の屈辱を際立たせる。
殿下は千人長の泳ぐ目を見据え、冷たく言い放った。
「帝国ともあろう大国が、これほど脆く、情報の精査もできぬ駒を使っているとは失望した。もっと賢い駒を使うよう、本国の主によく伝えておくことだ」
千人長の拳が、わなわなと震えていた。
反論できない。反論すれば、内通者の存在を公に認めることになる。
「……今すぐ、兵を引け。これ以上の狼藉は、我が国への宣戦布告と見なす。それとも、この場で『誤報に踊らされた無能』として、皇帝への報告書に名を連ねたいか?」
千人長は、何も言えなかった。
一礼もせず、逃げるように踵を返し、嵐の中へと去っていった。
あたしは、その惨めな背中を見送った。
圧倒的な力を持つ大国を相手に、言葉と知略だけで退けた。
情を見せず、躊躇わず、冷徹に最善手を打ち続ける。
この主は、本物だ。
殿下があたしの方を振り向いた。その瞳には、勝利の高揚などなかった。ただ、次の一手を考える冷たい光があるだけだ。
「セドリックを拘束しろ。夜明け前に」
「承知しました」
あたしは短く答え、影のように部屋を出た。
裏切り者を断罪する。それがあたしの仕事だ。
感情はいらない。ただ、任務を遂行する。
……でも。
この主のためなら、あたしは喜んで影に徹する。
そう思える主に出会えたことが、諜報員として生きてきた中で、一番の幸運かもしれない。
そんな甘いことを考えながら、あたしは夜明け前の闇へと溶けていった。
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