39話:最後の王
レムリア公国の広場。
そこには、地獄のような戦いを生き延びた数万の民衆が集まっていた。
難民も、旧来の民も、泥と血にまみれた兵士たちも、かつては反目していた貴族たちも。
皆、身分の垣根を越え、一つの国の民として、肩を寄せ合いそこに立っていた。
殿下が、公城のバルコニーに立った。
その右腕には、禍々しくも美しい黒い義手が脈打っている。体には無数の傷跡が刻まれ、立っているのが不思議なほどだった。
しかし、その瞳には、一点の曇りもない揺るぎない意志が宿っていた。
「レムリアの民よ」
殿下の声が、広場に響き渡った。
「我らは、勝った」
その一言で、張り詰めていた緊張が弾けた。
民衆の間から、どっと歓声が上がった。抱き合う者、泣き崩れる者、空に向かって拳を突き上げる者。
しかし、殿下は静かに左手を上げて、それを制した。
広場が、再び水を打ったように静まり返る。
「だが、まだ終わりではない」
殿下の声が、静かに、しかし重く響いた。
「教皇国は、最後の置き土産として、この地に制御不能な呪いを解き放った。北の国境は今、崩壊の淵にある。その呪いを止めるために、俺は人柱になる」
民衆の間に、さざ波のような動揺が走った。
勝利したはずの王が、なぜ犠牲にならねばならないのか。悲鳴に近い声が漏れる。
「案ずるな」
殿下は、慈父のように微かに笑った。
「俺が人柱となっている間、この国は、お前たちの手で守られる」
殿下は、眼下の海のような民衆を見渡した。
「今日をもって、レムリア公国の王政は廃止される」
その宣言は衝撃的だった。
民衆の間にざわめきが広がっていく。
「これからは、民が中心の国を作るのだ。誰かに守られるだけの弱き者としてではなく、お前たちが自らを選び、自らを支え、自らの足で立つ国を」
殿下の声が、力強くなった。
「俺は、最後の王として、この国の礎となる。お前たちは、その礎の上に、新しい国を築いてくれ。できるな?」
民衆は、言葉を失っていた。
あまりにも大きく、あまりにも重い託し物。
しかし、その沈黙を破ったのは、一人の老兵の震える声だった。
「……陛下、万歳」
その声に続いて、別の声が、また別の声が上がった。
それは波となり、うねりとなり、やがて轟音となった。
「陛下万歳!!」
「レムリア万歳!!」
「我らが最後の王に、永遠の栄光を!!」
万雷の歓声が、広場を満たした。
それは、悲しみと、感謝と、そして未来を背負う決意が入り混じった、魂の叫びだった。
殿下は、その歓声を全身で受け止めながら、静かに目を閉じた。
◇◇◇
国境の地。
世界を引き裂く傷口のように、黒いタールが溢れ出す空間の回廊の前に、殿下は立った。
吐き気を催す腐臭と、肌を刺すような邪悪な魔力が渦巻いている。
傍らには、自分たち側近が控えている。
皆の目には、涙が滲んでいた。しかし、誰も止めようとはしなかった。
それが殿下の意志であり、殿下の戦いであると知っているからだ。
殿下は、もう振り返らなかった。
未練を断ち切るように、前だけを見据えた。
「……行くぞ」
殿下は、異形の義手を高く掲げた。
黒い蔓が義手から無数に溢れ出し、空間の回廊へと伸びていく。
図書館で得た禁忌の術式が、起動した。
【共鳴する墓標】。
大陸全土に広がる蔓のネットワークを逆流させ、そのすべてをたった一点、己の肉体に引き受ける術式。
殿下の体が、漆黒の光に包まれた。
瞬間、大陸中の負の感情が、濁流となって殿下の体に流れ込んでいく。
怨嗟、悲嘆、絶望、そして物理的な痛み。
全身の骨が軋み、血液が沸騰するような凄まじい苦痛が殿下を襲っているはずだった。
しかし、殿下は叫ばなかった。
歯を食いしばり、ただ、静かに微笑んでいた。
「……これで、いい」
殿下の声が、風に溶けて消えていく。
「この大陸の泥を、すべて俺が背負う。お前たちは、平穏に、笑って生きてくれ」
黒い光が凝縮し、殿下の体を完全に包み込んだ。
そして。
空間を裂いていた回廊が、音もなく閉じていった。
溢れ出していた黒いタールが、潮が引くように殿下の足元へと吸い込まれていった。
徘徊していた光の亡者たちが、糸が切れたように崩れ落ち、塵となって風に消えていった。
後に残ったのは、突き抜けるような青空と、静寂だけだった。
◇◇◇
国境の丘に、巨大な黒い結晶が鎮座していた。
それは、あらゆる光を吸い込む、美しくも悲しい棺のようだった。
その透明な闇の中で、殿下は眠っていた。
しかし、その胸の奥にある心臓は、微かに、けれど力強く静かに脈打っていた。
生きている。
死んではいない。眠っているだけだ。
大陸中の呪いを一身に引き受け、浄化し続けながら、永遠に近い眠りの中で、この大陸を守り続けているのだ。
自分は、その結晶の前に重い音を立てて跪いた。
兜を脱ぎ、額を結晶に押し当てた。
「陛下」
自分の声は、男泣きに震えていた。
「あなたの遺志は、必ず継ぎます。この国を、いえ、あなたが守ったこの大陸を、我が命に代えても必ず守ります。安らかにお眠りください」
ヴァインが、杖をついてよろめきながら歩み寄った。
結晶の表面を、枯れ木のような手で優しく撫でる。
「陛下。王政廃止の制度は、必ず完成させます。あなたが夢見た、民が中心の国を、この老骨が砕けようとも必ず作りますぞ」
カイルが、懐からスキットルを取り出し、結晶に向かって掲げた。
その顔には、寂しげな、しかし晴れやかな笑みがあった。
「陛下。これから退屈な平和な世界になりそうだが、あんたの勝ち分を守るためなら、悪くない賭けだ。乾杯」
リオラとルークが、並んで跪いた。
二人は祈るように手を組み、主君の寝顔を見つめていた。
「陛下。私たちは、あなたの影であり続けます。この国が平穏である限り、あなたの眠りも平穏であるように」
「おやすみなさい、陛下」
自分たちの目には、涙が滲んでいた。
しかし、その涙は絶望のものではない。
その瞳には、新しい時代を切り拓く、揺るぎない決意が宿っていた。
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