32話:眠れぬ者たちへ
その夜。
城の広間には、久方ぶりに、香ばしく焼ける肉の匂いと、暖炉の薪がはぜる音が満ちていた。
◇◇◇
老書記官マティアスは、広間の隅で杯を握りしめていた。
周囲には、若い十人長たち、影の部隊の者たち、そして自分と同じ老書記官たちがいる。
皆、緊張した面持ちで、上座に座る側近四名をちらちらと見ている。
宴が始まって間もなく、陛下が口を開いた。
「ヴァイン、アラリック、リオラ、ルーク。少し、席を外してくれ」
四人が顔を上げた。
「お前たちの部下から、忖度のない本当の『仕事ぶり』を聞きたいのでな。上司がいると話しにくかろう」
ヴァイン様が怪訝そうに白眉を寄せたが、王命には逆らえない。
四人は、隣室へと下がっていった。
広間に残されたのは、雲の上の存在である王と、私たち下っ端だけ。
緊張で、誰もが震えていた。
陛下が、玉座から降りてきた。
私たちと同じ目線に立ち、静かに口を開く。
「無礼講だ。ありのままを話せ。私の側近たちは、今、どうなっている?」
その真摯な言葉に、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「ヴァイン様は……昼食を三日連続で抜かれました」
マティアスは、声を震わせた。
「我らが勧めても『陛下のペンが動いている間は、私の箸は動かせん』と……このままでは、陛下より先に倒れてしまわれます」
「アラリック団長は……」
若い十人長ガレスが、声を詰まらせた。
「夜中の練兵場で、ご自身の右腕を縛り上げて、左腕一本だけで槍を振るう訓練を続けておられます。部下には『休め、明日死ぬぞ』と仰るのに、ご自身は眠ることなく……」
「リオラ様もルーク様も……」
影の者ナギが、床に額を擦り付けた。
「最近はまばたきすら忘れたような、ガラスのような目をしておられます。陛下を守るためとはいえ、あの御方たちには『心』を休める場所がどこにもないのです」
彼らの言葉は、報告ではなく、悲痛な訴えだった。
陛下は、静かに立ち上がった。
そして、跪く私たちに向かって、深く、深く頭を下げた。
広間が、凍りついた。
「……すまない」
陛下の声が、静寂に染み渡った。
「私の不徳ゆえ、彼らをそこまで追い詰めてしまった」
マティアスは、息を呑んだ。王が謝罪するなど、あってはならないことだ。
「だから、王としてではなく、一人の友として、お前たちに頼む」
陛下の目が、一人一人を真摯に見つめた。
「彼らの隙を見つけ、無理やりでも茶を飲ませ、くだらない話をし、背中を叩いてやってくれ。彼らを『役職』ではなく『人間』として繋ぎ止めるのは、私の権威ではなく、一番近くにいるお前たちの支えだ」
マティアスの目から、涙が溢れた。
「……今夜は、彼らが戻ってきたら、身分など忘れて思い切り盛り上げてやってくれ。頼んだぞ」
陛下は、足音を殺して隣室へと向かった。
◇◇◇
隣室では、自分たち四人が直立不動で陛下を待っていた。
ヴァインは杖を握りしめ、自分は拳を固く結んでいる。
リオラとルークは影のように静かに立っている。
空気は張り詰めていた。
陛下が入ってきた。
一人一人の顔を、射抜くような、しかし温かい目で見据える。
そして、口を開いた。
「一生懸命に働くことと、己をすり減らすことは、似て非なるものだ」
自分の背筋が、僅かに強張った。図星を突かれた子供のように。
「ヴァイン、アラリック、リオラ、ルーク」
陛下は、一人一人の名を慈しむように呼んだ。
「お前たちは、私の一部だと言ったはずだ」
陛下は、欠損した右肩を、左手で強く叩いた。
「私が腕を失った今、お前たちが心をすり減らして壊れてしまえば、私は二度と立ち上がれなくなる。それは敵に殺されるのと同じことだ」
沈黙が落ちた。
雨音だけが、窓の外で遠く響いている。
「私がこれから、この新しい呪いの腕を装着し、その苦痛に耐え抜くためには、私の周りの世界が『正気』でなければならん」
陛下の声が、切々と響いた。
「お前たちがボロボロの状態で、どうして私が自分を保てると信じられる? お前たちの苦痛は、私の苦痛だ」
ヴァインの手が、小刻みに震えた。
自分の目が、激しく揺れた。
リオラとルークの指が、互いを求めるように微かに動いた。
「いいか、これは命令だ」
陛下の声が、鋭く、しかし優しくなった。
「私を安心させてくれ」
その言葉に、四人の目が見開かれた。
「お前たちが自分を大切にすることが、今の私にとって最大の支えであり、最強の武器なのだ」
陛下は、一拍置いた。
「……その覚悟ができたら、広間に戻ってこい。冷めた肉は不味いぞ」
陛下は、そう言って微笑み、背を向けて隣室を出ていった。
残された自分たちは、しばらく動けなかった。
張り詰めていた糸が、プツリと切れたようだった。
ヴァインは震える手で杖を握りしめ、皺だらけの頬に静かに涙を流していた。
自分は唇を噛んで視線を落とし、握りしめた拳から血が滲んでいた。
リオラとルークは、互いの手を固く握り合い、肩を震わせていた。
自分たちの目に宿っていた「死を急ぐような鋭さ」が、陛下の言葉によって、雪解け水のようにゆっくりと溶けていった。
◇◇◇
広間に戻ると、空気が変わっていた。
部下たちの目が、涙に濡れている。
だが、その目には、使命感のような光が宿っていた。
老書記官マティアスが、杯を持って駆け寄ってきた。
「ヴァイン様! 今夜は無礼講と伺いました! 一杯、お付き合いください!」
ヴァインが、驚いたように目を見開いた。
「マティアス、お前……」
「陛下のお許しです! 今夜だけは、書類のことは忘れてください!」
若い十人長ガレスも、自分に駆け寄ってきた。
「団長! 昔の失敗談、聞かせてくださいよ!」
「失敗談だと?」
「あるでしょう! 絶対あるはずです!」
自分は、思わず笑みを漏らした。
こいつら、いつの間にこんなに図太くなった。
宴は、騒がしいものとなった。
ヴァインも、この夜ばかりは「飲み過ぎだ」と小言を言うのを止め、部下からの杯を干した。
自分は、若い兵たちに囲まれて、昔の失敗談を語りながら照れくさそうに笑っていた。
リオラとルークは、隅で静かに杯を傾けていたが、その目には、久しぶりに柔らかい光が宿っていた。
宴の終盤。
酒が回り、意識が霞んでいく。
おかしい。自分はそこまで弱くない。
だが、瞼が重い。抗えないほどに。
最後に見たのは、陛下が自らの手で毛布をかけている姿だった。
◇◇◇
「……陛下、一滴残らず」
陛下の影に潜んでいた者が、音もなく報告した。
報告を受けた時、四人は既に、数年分の疲れを癒すような深い眠りに落ちていた。
アラリックは、座ったまま豪快に。
ヴァインは、机に突っ伏して安らかに。
リオラとルークは、陛下の足元に近い影の中で、寄り添うように丸くなって、まるで赤子のように。
陛下は、自らの手で彼らに毛布をかけさせた。
そして、祭りの後のように静まり返った広間を、独り見つめた。
◇◇◇
老書記官マティアスは、その光景を広間の隅から見ていた。
四人が眠りに落ちた経緯を、マティアスは知らない。
だが、陛下が自ら毛布をかけ、眠る側近たちを見守る姿に、胸が締め付けられた。
窓の外では、雨音に代わって、星々が静かに輝いていた。
北の空には、まだ不吉な黒い煙が細く立ち上っている。
聖戦軍は、あと三日の距離に迫っている。
だが、今夜だけは。
今夜だけは、この人たちを眠らせてやりたかったのだ。
マティアスは、静かに広間を後にした。
明日から、また地獄のような戦いが始まる。
だが、自分たちにも、できることがある。
上官を「人間」として支えること。
それが、陛下から与えられた使命だ。
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