25話:隻腕の誓い
風を切る音だけが、耳を打っていた。
自分は殿軍を務めながら、帝都の路地を駆け抜けていた。
背後から追ってくる変異体の群れを、ベリサリウスの老兵たちと共に叩き落としながら。
振り返る余裕はない。
ただ、前へ。殿下の背中を守りながら、前へ。
帝都の城門が見えた。
あと少しだ。
◇◇◇
城門を抜けた瞬間、追撃が途絶えた。
帝国兵たちは、城壁の内側で足を止めている。
カストルの命令か。それとも、変異体を帝都の外に出すことを恐れたか。
どちらでもいい。
今は、この隙に距離を稼ぐだけだ。
「全軍、止まるな! 街道を南へ!」
自分の号令が響く。
千を超える軍勢が、一つの生き物のように街道を疾走していく。
自分は殿下の馬の横に並んだ。
殿下は、左手で手綱を握りしめ、感覚の消えた右腕をだらりと垂らしたまま、前だけを見ていた。
蒼白な顔。だが、その目には揺るぎない意志が宿っている。
大丈夫だ。
殿下は、まだ戦える。
自分はそう信じて、馬を走らせ続けた。
◇◇◇
異変が起きたのは、帝都を出て半刻ほど経った頃だった。
殿下の体が、不意に揺らいだ。
「……ッ」
小さな呻き声。
殿下の右腕が、微かに痙攣し始めている。
メフィストが馬を寄せ、素早く殿下の右腕を診た。
仮面の奥の目が、鋭く細められる。
「陛下、効果が切れ始めています」
メフィストの声が、低く警告を発した。
「あと四半刻もすれば、右腕の侵食が再開します。今度は、以前よりも速く、激しく」
殿下の顔が、苦痛に歪んだ。
だが、その目は前を向いたままだ。
「……どこまで持つ」
「このままでは、半日も持たないでしょう。侵食が肩を越えれば、心臓に達します」
◇◇◇
殿下が、静かに馬を止めた。
「全軍、止まれ」
その声は掠れていたが、命令としての重みは失われていなかった。
千を超える軍勢が、一斉に足を止める。
街道の両脇に広がる荒野に、沈黙が落ちた。
殿下は馬から降りた。
ふらつく体を、カイルが支える。
自分も馬を降り、殿下の傍に駆け寄った。
殿下の右腕を見て、息を呑んだ。
包帯の下で、黒い蔓が激しく脈打っている。皮膚を突き破らんばかりに。
「……陛下」
自分は、思わず声を上げた。
「その腕を切れば、あの黒い化け物に対抗する唯一の手段を失います」
宝印の力。
あの閃光だけが、変異体を焼き払える武器だった。
それを失えば、公国に戻っても——
殿下が、自分を見た。
その目には、迷いがなかった。
「まだ左腕がある」
静かな声。
「宝印は左手でも握れる。それに——」
殿下は、微かに笑った。
「剣を振るうのは、お前たちの仕事だ」
自分は、言葉を失った。
この方は、最初から覚悟していたのだ。
右腕を失っても、戦い続けることを。
◇◇◇
殿下は、荒野の岩に腰を下ろした。
右腕を、岩の上に投げ出すように置く。
黒い蔓が、皮膚の下で激しく脈打っている。
まるで、切断されることを察知したかのように。
殿下は、カイルを見上げた。
「やれ」
一言。
カイルは、無言で剣を抜いた。
◇◇◇
自分は、その瞬間を見つめていた。
カイルの剣が、月明かりを受けて鈍く光る。
その刃が、殿下の右肩に向けられる。
殿下は、目を閉じなかった。
真っ直ぐに前を見つめ、歯を食いしばっている。
カイルの手が、微かに震えていた。
だが、その目には迷いがなかった。
主君の命令だ。
躊躇えば、殿下が死ぬ。
カイルは、深く息を吸い込んだ。
「……畜生」
吐き捨てるように、一言。
そして。
ザンッ!!
鋼が肉を断つ音が、荒野に響いた。
◇◇◇
鮮血が、岩を染めた。
殿下の体が、びくりと跳ねた。
だが、声は上げなかった。
切り落とされた右腕が、岩の上に転がった。
その瞬間、黒い蔓が狂ったように暴れ始めた。
兵たちが悲鳴を上げて後退する中、一人だけ逆方向に飛び出した者がいた。
メフィストだ。
「素晴らしい! 素晴らしいッ!」
仮面の錬金術師は、嬉々として切り落とされた右腕に駆け寄った。
懐から取り出した鉄製の容器を開け、暴れる蔓ごと腕を押し込もうとする。
「生きたままのサンプル! しかも宿主から切り離された直後! こんな貴重な検体、二度と手に入りませんよ!」
黒い蔓がメフィストの腕に絡みつこうとする。
だが、錬金術師は怯むどころか、甲高い笑い声を上げながら素早く蓋を閉めた。
「クケケケッ! 大人しくしていなさい、私の可愛い研究材料!」
容器の中で蔓が暴れる音が、くぐもって響いている。
メフィストは満足げに容器を抱きしめ、殿下に向き直った。
「陛下、この腕は責任を持って研究させていただきます。対抗手段の開発に、必ずや役立てて見せましょう」
◇◇◇
自分は、殿下の傍に膝をついた。
カイルが既に止血の処置を始めている。
焼いた刃で傷口を塞ぎ、包帯を巻いていく。その手際は、戦場で何度も見てきた、手慣れたものだった。
殿下は、荒い息をつきながら、メフィストが抱える容器を見つめていた。
その目に、後悔はなかった。
あるのは、静かな決意だけだ。
「……終わったか」
殿下の声が、掠れて響いた。
「ああ」
カイルが短く答えた。
「出血は止めた。だが、しばらくは——」
「無理だな」
殿下は、ゆっくりと立ち上がった。
ふらつく体を、自分が支える。
殿下は、自分を見た。
「アラリック」
「……はい」
「私はもう、剣を振るえない」
殿下の目が、真っ直ぐに自分を射抜いた。
「お前が、私の剣になれ」
自分は、膝をついた。
言葉が、喉から絞り出された。
「……この命、陛下の剣として捧げます」
それは、騎士としての誓いだった。
殿下は、微かに頷いた。
「……行くぞ」
殿下は、残された左腕で手綱を握り、馬に跨った。
隻腕の王。
その姿は、痛々しくもあり、しかし——どこか神々しかった。
◇◇◇
自分は、槍を握りしめた。
この槍が、殿下の剣になる。
この命が、殿下の盾になる。
それが、騎士団長としての務めだ。
殿下が、残された左腕を高く掲げた。
「全軍、前進!」
掠れた声。だが、千の兵すべてに届く、王の声。
「我らは、故郷へ帰る!」
千を超える軍勢が、再び動き始めた。
隻腕の王を先頭に、南へ。
◇◇◇
異変が起きたのは、それから半刻も経たない頃だった。
殿下の体が、不意に傾いた。
「陛下!」
自分が叫ぶより早く、カイルが殿下の体を支えていた。
殿下の目が、虚ろになっている。
出血と、呪いの反動と、積み重なった疲労が、ついに限界を超えたのだ。
「……すまん」
殿下の唇が、微かに動いた。
「あとは……頼む……」
そのまま、殿下の意識が途切れた。
自分は、殿下を自分の馬に乗せ、その体を支えた。
「止まるな! 陛下を公国へお連れする!」
自分の声が、荒野に響いた。
ベリサリウスが、馬を寄せてきた。
老将軍の目が、意識を失った殿下を見つめている。
その目に浮かんでいたのは、憐れみではなかった。
畏敬だった。
だが、老将軍は何も言わなかった。
ただ、無言で頷き、自分の横に馬を並べた。
言葉は、後でいい。
今は、この王を故郷へ届けることだけを考えろ。
自分は、意識のない殿下の体を支えながら、南へ馬を走らせた。
公国の城門が、遠くに霞んで見えるまで。
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