22話:泥濘の聖域
華やかな大路を外れた瞬間、空気が変わった。
ヴォルカスの手引きで辿り着いたのは、帝都外郭練兵場。
石造りの無骨な建物が並ぶ、殺風景な一画だ。
漂うのは甘い香水ではない。汗と鉄錆、そして古い傷に塗る湿布薬の匂い。
金箔の鎧を纏った近衛兵の姿はなかった。
代わりにいたのは、継ぎ接ぎだらけの古びた鎧を纏い、冷たい雨の中で黙々と木剣を振るう、年老いた傷だらけの兵士たち。
自分は息を呑んだ。
彼らの動きには、一切の無駄がなかった。
何十年もの戦場を生き延びてきた者だけが持つ、研ぎ澄まされた本能。枯れ木のような静寂。
派手さはない。だが、一撃が重い。
本物だ。
その鋭い視線が、侵入者である自分たちへ一斉に向けられた。
値踏みするような目。敵意ではない。獲物を見定める狩人の目だ。
自分の手が、無意識に槍の柄を握りしめていた。
武者震いだ。こんな感覚は久しぶりだった。
ヴォルカスが自分の横に馬を寄せ、低い声で囁いた。
「……騎士団長殿、一つ伝えておく」
「何だ」
「カストルが言っていた『賓客の宿舎』、あれは罠だ。『白銀の牢獄』と呼ばれる離宮で、一度入れば皇帝の許可なく出られん」
自分は眉を顰めた。やはりそうか。
「殿下はそれを知っていたのか」
「俺が伝えた。だからここを選ばれた」
ヴォルカスは練兵場の奥を見やった。
「ここにいるベリサリウス大将軍は、今の帝国で唯一、話が通じる相手だ。カストルと第一皇子に疎まれて、隠居同然でここに追いやられている」
なるほど。
権力争いに敗れた老将軍。だが、腐った上層部とは無縁ということだ。
「……殿下の賭けか」
「ああ。この老兵たちを味方につけられるかどうか、すべてはこれからだ」
自分は頷いた。
ならば、見届けよう。武人として。
◇◇◇
練兵場の中央、雨を避ける屋根もない泥濘の中に、一人の巨漢が立っていた。
白髪混じりの髭を蓄え、身の丈ほどもある巨大な戦斧を杖のように突いて立つ。
かつて「帝国の盾」と呼ばれた男。
今は権力争いに敗れ、隠居の身にある男。
ベリサリウス大将軍。
自分は、その姿を見た瞬間、全身に電流が走るのを感じた。
老いている。だが、衰えてはいない。
むしろ、余計なものが削ぎ落とされ、純粋な「武」だけが残っている。
あの戦斧を振るわれたら、自分では受け止められない。本能がそう告げていた。
「……ヴォルカスか」
ベリサリウスの声は、腹の底に響く鐘の音のように重く、雨音を揺るがした。
「それに、そちらの若造がレムリアの新しい主か」
ベリサリウスは殿下の、包帯の下で脈打つ右腕を一瞥し、フンと鼻を鳴らした。
「その腕……『杭』としての重荷を、自ら引き受けたか」
自分は目を見張った。
この老将軍は、殿下の右腕が何を意味するか、一目で見抜いている。
ベリサリウスの目が、物理的な圧力を伴って殿下を射抜いた。
「カストルの狐野郎に尻尾を振って豪華な牢屋に入らず、わざわざこの泥臭い墓場を選んで来るとは、見上げた度胸だ」
墓場。
老兵たちの終着点。だが、その言葉に卑下はなかった。むしろ、誇りが滲んでいる。
殿下が馬を降りた。
蒼白な顔。脂汗。だが、その目は真っ直ぐベリサリウスを見据えている。
「ベリサリウス大将軍」
殿下の声は掠れていたが、芯があった。
「北で何が起きたか、貴殿ならば理解できると聞いた」
「ヴォルカスから聞いている。黒い蔓。変異体。そして、貴殿の右腕に封じられた『地獄の一部』」
ベリサリウスは戦斧を軽々と持ち上げ、肩に担いだ。
「だが、理解することと、力を貸すことは別だ」
老将軍の目が、試すように細められた。
「……あんたがこれから、第一皇子やカストルとどう戦うつもりか、俺の戦斧に納得させてみろ」
ドォンッ!!
ベリサリウスが戦斧の石突きを地面に突き立てた。
練兵場全体が震えるような衝撃波が走る。
「納得すれば、この練兵場の五百の老兵、あんたの盾として貸してやらんこともない」
五百。
数だけ見れば少ない。だが、この老兵たちの質を考えれば、一騎当千どころではない。
自分は槍を握る手に力を込めた。
殿下がどう答えるか。武人として、見届けたかった。
◇◇◇
その時だった。
練兵場の入り口に、不穏な影が差した。
先ほどの馬車を護衛していた数を遥かに凌ぐ重装歩兵。そして、カストルの直属と思われる黒装束の集団が姿を現した。
自分は即座に槍を構えた。
カストルは宮殿へ戻ったわけではなかった。
殿下を、この練兵場の「老いぼれ」たちごと隔離し、始末するために動いたのだ。
「陛下、カストルの奴、第一皇子を待たずにここで我らを始末するつもりかもしれません」
カイルが殿下の横で、抜剣せずに唇を動かした。
「奴にとって、帳簿の真実を知る者は生かしておけないはずだ。事故に見せかけて、ここで皆殺しにする気でしょう」
自分はベリサリウスの放つ威圧感に敬意を払いつつも、背後から迫る包囲網に対して身構えた。
仮面の錬金術師メフィストは変異体のサンプルを握りしめて舌なめずりをし、盲目の吟遊詩人リラは竪琴の弦に指をかけ、不気味な旋律を奏でる準備をしている。
練兵場を囲む重装歩兵たちが、じりじりと包囲の輪を縮め始めた。
その数、二百を超える。
だが、自分は恐怖よりも、別の感情が湧き上がるのを感じていた。
武人としての血が、滾っている。
この練兵場にいる老兵たちは、本物だ。
彼らと共に戦えるなら、死地であっても悔いはない。
ベリサリウスが、ゆっくりと戦斧を構え直した。
「……新王よ」
その声には、先ほどまでの試すような響きはなかった。
「どうやら、ゆっくり話している暇はなさそうだ」
遠くで、宮殿の方から、さらに巨大な軍勢が近づく軍靴の音が聞こえてくる。
第一皇子の本隊かもしれない。
時間がなかった。
自分は殿下の背後に立ち、盾を構えた。
何が起きようと、この方を守る。それが騎士団長の務めだ。
殿下は沈黙していた。
ベリサリウスの黄金の瞳を見つめ、その内にある揺るぎない「武人」としての魂を感じ取っているようだった。
やがて、殿下が静かに口を開いた。
「私の言葉では無理だな」
ベリサリウスの眉が、微かに動いた。諦めたと思ったのか。
「ただ」
殿下は、背後を振り返った。
自分を、見た。
「腐った兵に、我が右腕が育て上げた軍隊が負けるとは思えない」
右腕。
それは自分のことだ。
心臓が、強く脈打った。
「作戦ではないが、アラリックとその軍を見てくれ」
殿下の目が、自分を真っ直ぐに捉えた。
「アラリック、軍の士気を爆発させろ」
短く、しかし絶対的な号令。
自分の目に、灼熱の炎が宿った。
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