18話:突破の槍
森の空気が変わった。
自分は手綱を握る手に力を込め、周囲を見回した。
湿った腐葉土の匂いに混じって、別の何かが漂っている。
嗅ぎ慣れた血の匂いではない。もっと不快な、腐敗と薬品が混じったような臭気。
殿下が、不意に右腕を押さえた。
包帯の下で、何かが脈打っている。蒼白い光が、布地を透かして明滅していた。
「……殿下」
「気づいているか、アラリック」
殿下の声は低い。だが、動揺はない。
「シュル……シュルシュル……」
空気が漏れるような、湿った音。
あの北のキャンプ地で聞いた音だ。背筋が粟立つ。
一箇所ではない。前方、そして背後からも。
自分は槍を握り直した。
帝国兵の中に、歩き方がぎこちない者が数名いる。兜の隙間から覗く肌が、泥のように黒ずんでいた。
◇◇◇
カイルが馬の陰から音もなく現れた。
「帳簿の数字には載っていない『客』が来たようです。帝国軍の中にも、北の『黒死病』が紛れ込んでいたらしい」
カイルの目が鋭い。
「ここで奴らが暴れ出せば、ヴォルカスはパニックになる。『やはりレムリア王が呪いを撒き散らした』と責任を押し付けてくるでしょう。最悪、殺し合いです」
殿下が即座に決断した。
「カイル、アラリックと千人長ヴォルカスに急ぎ伝えよ。両軍の将として対等に接し、情報を共有させろ」
「敵に塩を送りますか?」
「塩ではない、情報だ。みんなでこの危機を乗り越える」
カイルが一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「御意。共通の敵を作って握手させる、外交の基本ですね」
カイルが馬を走らせ、前方へ駆けていった。
◇◇◇
その時だった。
背後の焚き火のそばで、槍が地面に落ちる音がした。
「……あ、が……あ、ああ……」
一人の帝国兵が、喉を掻きむしりながら崩れ落ちた。白目を剥き、口から泡を吹いている。
千人長ヴォルカスが叫んだ。
「近寄るな! そいつはもう味方ではない!」
遅い。
倒れた兵士の背中から、湿った音が響いた。
黒い蔓が、脊椎を突き破って溢れ出す。鎧の隙間から、無数の蛇のように。
兵士の口が限界まで開いた。顎が外れる音。
だが、漏れたのは悲鳴ではなかった。
「シュルルルル……」
変異は連鎖した。
森の闘から、同じ音を立てる影が這い出してくる。十、二十。木々の隙間から覗く無数の目。すべてが濁った銀色だ。
兵士たちの間に恐慌が広がった。
「化け物だ……!」
「囲まれている……!」
「逃げろ!」
殿下の声が、その崩壊を切り裂いた。
◇◇◇
「あれに対抗する方法はまだない! 今は戦うな!」
殿下は馬上で立ち上がり、全軍に響く声で叫んだ。
「突破だ! 前へ進め!」
その一言が、瓦解しかけた軍の意志を繋ぎ止めた。
自分は長槍を構え、ヴォルカスも剣を抜いた。
「陛下、ご指示を! 円陣か、一点突破か!」
「突破だと言った! 立ち止まれば泥に呑まれるぞ! 全速力で森を抜ける!」
殿下が自分に視線を向けた。
「アラリックよ」
「はい!」
「この右腕の解析のためにも、突破寸前で何か——黒い泥に侵食された部位など、サンプルを確保できそうなら頼む」
自分は頷いた。
「ただし」
殿下の声が、王命の重みを帯びた。
「絶対に深入りするな。巻き込まれるな。これは絶対の王命だ」
殿下の目が、自分の魂を射抜いた。
「こんないかれた右腕のために、お前のようなピカピカの右腕をくれてやるつもりはない」
息が止まった。
主君からの、これ以上ない信頼。
迷いは消えた。
「——畏まりました!」
自分は天に向かって槍を突き上げた。
「この『右腕』、陛下の盾として一分の曇りもなく使い果たしてみせましょう! レムリア騎士団、我に続けぇッ!!」
◇◇◇
数百の馬蹄が泥を跳ね上げ、鉄の塊が闇を切り裂いて進む。
自分が先頭に立ち、レムリアの精鋭たちが楔形の突撃陣形を組んだ。
ヴォルカスも号令をかけた。
「全軍、新王に続け! 退路はない、道を切り開け!」
行く手を塞ぐのは、かつて帝国の兵士だったモノたち。
痛みを感じない。恐怖もしない。
槍が胸を貫いても、黒い蔓を伸ばして馬の脚に絡みつき、引き倒そうとしてくる。
一人の帝国兵が馬から引きずり下ろされた。短い悲鳴。湿った音。
数秒後、その兵士は立ち上がり、こちらを向いた。敵として。
「撥ね退けろ! 止まるな!」
ヴォルカスの長剣が変異体の首を撥ね飛ばす。
だが、首を失っても動きを止めない。黒い蔓が切断面から噴き出し、新たな頭部を形成しようと蠢く。
「心臓だ! 心臓を潰せ!」
後方からカイルの声が響いた。
「あの蔓は心臓を苗床にしている! 首じゃなく胸を抉れ!」
隻眼の傭兵ゴルガスが、馬上で大剣を振り上げた。
豪快な一閃。変異体の胸郭が、鎧ごと両断された。
黒い泥が飛び散り、蔓の供給源を絶たれた体が崩れ落ちる。
「……なるほど、急所は一つか」
ゴルガスは返り血にまみれた顔で笑った。
「面白い。久しぶりに腕が鳴るぜ」
◇◇◇
森の出口が見えた。
自分は走り抜ける勢いを利用し、地に伏した変異体の腕を槍の先で切り落とした。黒い蔓が成長しようとしている部位だ。
「メフィスト!」
放り投げる。
錬金術師が懐から強化硝子の円筒を構えた。
生きたままの腕が吸い込まれ、中で蔓がガラスを叩いて暴れている。
「クク……見事だ、騎士団長! 鮮度が良い!」
メフィストはそれを懐へ収めた。
「陛下、これで『材料』は揃いました。帝都に着くまでに、この呪いの片鱗を解剖してみせましょう」
盲目の吟遊詩人リラが叫んだ。
「陛下! 前方、開けています! 風の音が変わりました、森の出口です!」
「行け! 全速力で駆け抜けろ!」
殿下の号令が響き、全軍が最後の力を振り絞って森を突破した。
◇◇◇
森を抜けた。
冷たい夜風が頬を打つ。星が見える。
自分は馬の速度を落とし、後方を振り返った。
殿下は無事だ。カイルも、ゴルガスも、メフィストも、リラも。
だが、帝国兵は三割ほど減っていた。
ヴォルカスの顔が青い。自軍の損耗を目の当たりにして、言葉を失っている。
殿下が馬を寄せた。
「千人長。あれが、北の山脈から解き放たれたものだ。お前たちの輜重部隊が掘り起こした呪いの一端だ」
ヴォルカスは何も言えなかった。
「私を疑うのは構わん。だが、あれを止めなければ、帝国も、レムリアも、この大陸のすべてが呑み込まれる」
殿下の右腕が、包帯の下で脈打っている。
だが、その目には恐怖はなかった。
「協力しろ、千人長。今は、それしかない」
ヴォルカスは、ゆっくりと頭を下げた。
「……御意」
自分は槍を握り直した。
まだ終わりではない。むしろ、これからだ。
街道の先に、雨に煙る帝都グラディウムの外郭門が見えてきた。
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