14話:腐った帳簿
廃墟に残ったのは、俺と殿下の二人だけだ。
ルークは、レオンを背負って先に城へ向かった。あの若い斥候の背中が雨の中に消えていくのを、俺は黙って見送った。
焚き火が爆ぜる。
殿下は壁に背を預け、目を閉じていた。顔色は死人のように白い。右腕の包帯の下では、あの黒い蔓が脈打っているはずだ。
「カイル、帳簿の内容をざっと確認して、駆け引きに使えそうな内容だけ記憶しろ」
目を閉じたまま、殿下が言った。
「御意。暗算なら任せてください」
「それと、調査員として、北の『異変』のもっともらしい理由の検討も頼む。そこを突っ込まれたら、『我が国の切り札が暴走した』という文脈で振るからな。嘘八百でいい、奴らを煙に巻け」
俺は、思わず口の端を吊り上げた。
「クク、面白い。あんたの『切り札』を演出する脚本家になれってことか。三文芝居は得意ですよ」
「今すぐ城に向かうが、私はぎりぎりまで休む。帳簿の最重要項目の要点だけ、直前に聞く」
殿下の声が掠れた。急速な消耗が、睡魔となって襲ってきているのだろう。
「では、最後のひと踏ん張り……任せたぞ」
それだけ言って、殿下は眠りに落ちた。
あっという間だった。体が限界なのは明白だ。
◇◇◇
俺は、泥と粘液にまみれた帳簿を焚き火の光にかざした。
表紙は不快な黒い染みで汚れているが、中の数字は読める。帝国の輜重部隊が几帳面に記録していた兵站帳簿だ。
ページをめくる。
最初の数行で、俺は眉を顰めた。
「……なるほど」
帝国軍の今回の遠征費用。その大部分が、自由都市連合の『闇の豪商』からの借金で賄われている。
利息がえげつない。年利三割を超えている。
つまり、この遠征が失敗するか長期化すれば、帝国経済は破綻する。
次のページ。
採掘命令の発令者。皇帝陛下の名前がない。
代わりにあるのは、軍部の急進派——第一皇子派閥の将軍たちの署名だ。
「……独断か」
これは使える。
皇帝陛下が知らないところで、第一皇子の息がかかった連中が暴走した。そういう筋書きが成り立つ。
帝国内部の権力闘争に火を点ける材料だ。
さらにページをめくる。
横領の記録。水増し請求。架空の物資調達。
帝国軍の兵站は、上から下まで腐りきっていた。
「面白い」
俺は、嬉々として呟いた。
「帝国の『胃袋』は、想像以上にボロボロだ」
焚き火に薪をくべる。
殿下は、壁に寄りかかったまま動かない。呼吸だけが規則正しく続いている。
俺は帳簿をめくり続けた。
数字を頭に叩き込む。横領の総額、水増しの手口、関与している将校の名前。
外交官時代に培った記憶術が、久しぶりに本領を発揮している。
◇◇◇
そして、帳簿の末尾。
俺は、手を止めた。
見覚えのある名前が並んでいた。
レムリア公国の貴族たち。三名。
彼らの署名と、帝国への採掘権譲渡に関する密約の覚書。
「……内通者か」
殿下の父君が倒れた直後から、帝国と教皇国が動き出したのは偶然ではなかった。
国内に、情報を流していた連中がいたのだ。
俺は、その名前を記憶した。
これも弾薬になる。いや、これこそが最大の弾薬かもしれない。
帳簿を閉じ、焚き火のそばに置いた。
外では、雨が小降りになりつつある。夜明けが近い。
◇◇◇
殿下を見た。
眠っている顔は、年相応に若い。まだ二十歳そこそこだ。
その右腕には、父親と同じ呪いが刻まれている。
酒場で声をかけられたのは、ほんの数日前だ。
あの時、俺はこの若造を「面白い」と思った。自分の命を賭け金にして、勝負を挑んでくる目をしていたから。
だが、あれから何度も死にかけた。
北の山脈で、あの黒い穴の前で、俺は確かに恐怖を感じた。
それでも、まだここにいる。
「……なんでだろうな」
俺は、自分に問いかけた。
答えは出ない。出す気もない。
ただ、一つだけ分かることがある。
この博打は、まだ終わっていない。
◇◇◇
夜明け前。
俺は殿下を揺り起こした。
「時間です。そろそろ出ないと、城に着く前に日が暮れる」
殿下が目を開けた。一瞬だけ焦点が合わなかったが、すぐに意識が戻る。
「……帳簿は」
「頭に入ってます。要点だけ、道中で伝えますよ」
殿下は頷き、ゆっくりと立ち上がった。
足元がふらついている。だが、その目には光が戻っていた。
俺は殿下を馬に乗せた。
厚手の毛布で体を包み、自分の背中に括り付ける。落馬されては困る。
「しっかり掴まっていてください。多少荒っぽくなりますが、我慢してもらいますよ」
「……任せる」
短い返事。それだけで十分だ。
俺は手綱を取り、廃墟を後にした。
雨は上がっていたが、空はまだ鉛色の雲に覆われている。北の山脈からは、黒い煙がゆっくりと流れてきていた。
◇◇◇
馬を走らせながら、俺は帳簿の要点を伝えた。
「一つ。帝国軍の遠征費用は、大部分が闇の豪商からの借金です。この遠征が失敗すれば、帝国経済は破綻する」
「……喉元にナイフが突き刺さっているのは奴らも同じか」
殿下の声が、背中から聞こえた。掠れているが、思考は明晰だ。
「二つ。採掘を命じたのは皇帝陛下ではなく、軍部の急進派です。第一皇子の息がかかった連中の独断。つまり、帝国内部の暴走だ」
「使えるな」
「三つ」
俺は、少しだけ声を落とした。
「帳簿の末尾に、我が国の貴族数名の署名がありました。奴らは帝国と通じて、北の山脈の採掘権を売り渡していた」
背中で、殿下の体が強張ったのが分かった。
「……内通者がまだいたか」
「これもカードになります」
「ああ。全て叩き潰す」
その声には、怒りが滲んでいた。
だが、感情に流されてはいない。冷静に、次の手を計算している。
◇◇◇
「北の異変の『理由』ですが」
俺は続けた。
「『帝国が禁忌を侵して、古代の呪い——鉄の黒死病——を掘り当てた。公国はそれを命懸けで封じ込めている』……これで通しましょう。あんたのその右腕は、その『封印の代償』だ」
殿下は、しばらく黙っていた。
「……悪くない」
「聖者か悲劇の英雄にでもなったつもりで振る舞ってください。客席は満員ですよ」
俺は、にやりと笑った。
背中の殿下が、小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。
◇◇◇
城門が見えてきた頃、殿下は再び眠りに落ちていた。
呼吸は規則正しい。だが、時折、右腕がびくりと跳ねる。あの黒い蔓が、心臓に向かって脈打っているのだろう。
俺は、前を向いたまま呟いた。
「……まだ死ぬなよ」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
「あんたが死んだら、この『血塗れの帳簿』も、あの『不気味な歌を歌う騎士』も、全部ただの燃えないゴミになっちまう」
俺の苦労を無駄にするな。
そう言いたかったのかもしれない。
だが、それだけではない気もした。
城門の前には、帝国の重装騎兵が陣取っているのが見える。
教皇国の白銀の旗も翻っている。
両国の圧力が、この小国に集中している。
俺は手綱を握り直した。
「さあ、博打の時間だ」
乗りかかった船だ。
沈むにしても、最前席で見届けてやる。
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