13話:帰還の道
崩れかけた古い監視塔の廃墟で、僕は焚き火の番をしていた
殿下が目を覚ました。
毛布に包まれたまま、ゆっくりと上体を起こす。その顔色は蝋のように白く、目の下には深い隈が刻まれていた。
だが、瞳の光は失われていない。
「……どれくらい眠っていた」
「数時間です」
カイルが答えた。傷ついた左腕を庇いながら、焚き火のそばで帳簿を乾かしている。
「雨が降ってきて、煤を洗い流してくれた。おかげで追手も撒けた」
僕は部屋の隅に視線を向けた。
そこには、泥の中から引きずり出されたレオンが横たわっている。
彼は生きている。傷一つない。
だが、その瞳は焦点が合わず、虚空を見つめたまま、今も唇を微かに動かしている。声はもう出ていないが、呼吸のリズムがあの不気味な「古い歌」の韻律を刻んでいる。
見ていられなかった。
アラリック団長の懐刀。僕を「腕の立つ斥候」と紹介してくれた人。
その人が、今は壊れた人形のように転がっている。
「……ウーゴは、助けられなかった」
殿下が静かに言った。
僕は驚いた。あの絶望的な状況で、この人は全員を救おうとしていたのか。
帳簿も、レオンも、ウーゴも。そして、僕たちの命も。
「でも、帳簿はあります。レオンも、体は無事……」
カイルが言った。だが、その声は掠れた。「無事」という言葉が、あまりにも空虚だったから。
殿下が、痛みを堪えてゆっくりと袖を捲った。
僕は息を呑んだ。
殿下の右腕には、手首から心臓に向かって伸びる「黒い蔓」の紋様が、皮膚の下で脈打ちながら定着していた。
あの穴から溢れ出していたものと同じだ。
「……殿下、その腕」
「代償だ」
殿下は静かに言った。
「門番の血を杭として捧げた。父上と同じものが、私にも刻まれた」
◇ ◇ ◇
カイルが、帳簿をめくりながら口を開いた。
「殿下、動けますか? 城からは、ヴァインたちが必死に殿下の不在を隠しているという緊急の信号が届いています。だが、もう限界でしょう」
カイルは焚き火に薪をくべた。
「帝国の本隊も動き出した。北の『異変』に気づいた奴らは、口封じのためにこの山脈ごと全てを焼き払う気かもしれない。教皇国も、あの蒼い光を見て、今度こそ『聖戦』の大義名分を得たと確信しているでしょう」
殿下は、黒い蔓に覆われた右腕を見つめていた。
「……戻ろう」
殿下は立ち上がった。足元がふらついたが、すぐに持ち直した。
「城に戻って、次の手を打つ」
そして、僕を見た。
「ルーク」
名前を呼ばれて、背筋が伸びた。
「帳簿とレオンの秘匿は任せた。レオンのことはアラリックに伝えて、どうにかならないか、ありとあらゆる手を尽くしてくれ」
僕は頷いた。声が出なかった。
「そして……大事なアラリックの右腕である彼を、こんな状態にしてすまないと伝えてくれ」
王族の口から出る謝罪。
その重みを、僕は理解していた。
「……分かりました」
僕は立ち上がり、虚ろなレオンの体を背負った。
思ったより軽い。あの穴に飲まれて、何かが抜け落ちてしまったのかもしれない。
「死なないでください」
気づいたら、そう言っていた。
「帰ってきたら、『重役』なんでしょう。僕は」
殿下が、少しだけ目を見開いた。
そして、微かに笑った。
「ああ。約束だ」
◇ ◇ ◇
僕は雨の中、レオンを背負って山道を駆けた。
出発前に殿下に言われた言葉が、頭の中でずっと響いていた。
「使い捨ての駒ではない。帰ってこい」
あの時、僕は信じなかった。
甘い言葉で油断させて、都合が悪くなったら切り捨てる。そういう手口だと思った。
だが、殿下は自分の命を削って、レオンを助けた。
帳簿よりも、命を優先しろと言った。
そして今、右腕に呪いを刻んで、それでも城に戻ろうとしている。
背中のレオンが、微かに唇を動かした。
あの不気味な韻律。聞いているだけで、頭の奥がざわざわする。
「……黙れよ」
僕は小さく呟いた。
「アラリック団長のところに連れて帰る。だから、黙ってろ」
レオンは答えない。当たり前だ。
雨が顔を打つ。
冷たい。でも、あの黒い煤を洗い流してくれる雨だ。
城の秘密入口まで、あと少し。
僕は足を止めなかった。
「帰ってこい」と言われたから。
今度は、僕がレオンを連れて帰る番だ。
信じるかどうかは、まだ分からない。
でも、確かめたいと思っている自分がいた。
あの人の言葉が、本当かどうか。
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