12話:大地の膿
左腕はズタズタに引き裂かれ、俺は泥と血にまみれて岩陰に潜んでいた。
傍らには、ルークが岩に背を預けて座り込んでいる。壊れたボウガンを子供のように抱きしめ、肩で息をしている。あの不機嫌な小僧の瞳には、今は恐怖の色しかなかった。
俺たちは、地獄を見た。
天から降り注ぐ黒い煤が、弔いの灰のように音もなく降り積もっている。
前方に見える帝国のキャンプ。数十のテントが張られ、物資が積み上げられている。だが、そこにいる兵士たちの様子が決定的に異常だった。
彼らは立ち尽くしていた。
互いに言葉を交わさず、瞬き一つしない虚ろな目で、地面に穿たれた巨大な穴を凝視している。
その穴からは、黒いタールのような粘液が脈打つように溢れ出し、触れた草木を腐らせ、土を壊死させていた。
ドクッ、ドクッ、ドクッ……。
大地が心臓を持ったかのような、湿った鼓動音。
腐った卵と甘い果実を混ぜ合わせたような腐臭が、風に乗って漂ってくる。
その時、背後の枯れ草がカサリと鳴った。
俺は反射的に短剣を構え、首筋に切っ先を突きつけた。
だが、そこにいたのは——
「……遅かったな、殿下」
若造だった。
泥と煤にまみれ、低い姿勢で稜線を越えてきたらしい。
「よく生き残ってくれた」
殿下は、俺の濁った瞳を見つめた。
「そして、来るのが遅くなりすまない」
俺は短剣を下ろした。手が震えているのが自分でも分かった。
「……どういう状況か教えてくれ。レオンとウーゴは死んだのか?」
俺は力なく首を振った。
「死んだかどうかは、賭けの対象にもなりゃしませんよ。あの黒い泥の中に消えて、生きて戻った奴は一人も見ていない。だが……」
激痛に顔を歪ませながら、震える右手で左腕の傷口を押さえた。
「引き返せという命令は、奴らも守ろうとしていた。だが、運が悪すぎた」
◇ ◇ ◇
俺は、うわ言のように語り始めた。北の山で起きた悪夢を。
「合流地点で、レオンらが連れてきたウーゴが俺に情報を渡そうとした、正にその瞬間だ。山が『悲鳴』を上げたんだ」
地響きなんて生易しいもんじゃない。
「大地が、腹の中にある腐った中身をぶちまけるように、唐突に割れたんだ」
ルークが、泥と涙で汚れた顔を上げて、途切れ途切れに言葉を継いだ。
「……帝国兵たちは、狂ったように掘り続けていた。ドワーフの忠告も、山の異変も無視して。彼らが掘り当てたのは、青晶石の鉱脈じゃなくて、巨大な『肉の洞窟』だった。そこから、あの黒い蔓が……何百本もの蛇みたいに、一斉に溢れ出してきた」
俺は顎で、暗闘に蠢く帝国のキャンプを指し示した。
「レオンの野郎……腰を抜かしたウーゴを抱えて逃げればいいものを、衝撃で地面に落ちた『兵站帳簿』を拾おうと足を止めた」
俺の声が、悔恨で震えた。
「奴は言ったんですよ。『これがないと、殿下のブラフは本物にならない』ってな。……あんたへの忠義だ」
そのほんの一瞬の遅れを、地面から槍のように伸びてきた黒い触手が逃さなかった。
「ウーゴを、そしてウーゴを助けようとしたレオンを……まとめてあの穴の中へ、深淵へ引きずり込んでいった」
殿下は、左手の拳を、爪が食い込むほど強く握りしめていた。
「……ドワーフたちは」
「もういない」
俺は絶望的に首を振った。
「帝国が掘り当てたのは、資源なんかじゃない。……あれは、大地の膿だ。父王が言っていた『門番』ってのはお伽噺じゃなかった。ドワーフたちは、それを物理的に封印していたんだろう。だが、帝国の無知な連中が蓋を開けてしまった」
その時。
先ほどまで微動だにしなかった帝国兵の一人が、カクカク、と油の切れた人形のように首を不自然な方向に曲げ、こちらを向いた。
殿下が息を呑むのが分かった。
その顔の皮膚は中心から裂け、中からは赤黒い筋肉と、眼球の代わりに脈打つ黒い根が露出している。口からは、人間の舌ではなく、数本の細い触手が垂れ下がっていた。
彼らは言葉を発しない。ただ、裂けた喉の奥から「シュルシュル、シュルシュル……」という、空気が漏れるような異音を立てながら、周囲にある「生きた熱」を探して鼻を蠢かせている。
「殿下、今の俺たちにできるのは、穴の縁に落ちているあの帳簿を回収してここを離れることか……あるいは、あの化け物どもにバレる前に、この山ごと岩盤を崩して封鎖する手立てを考えることだ」
俺は殿下の目を、射抜くような鋭さで見つめた。
「だが、帳簿の周りには、あいつらが群がっている。……それと、もう一つ。信じられない話だが」
俺の声が低くなった。
「あの穴の底から、レオンの声が聞こえた気がしたんだ。……悲鳴じゃない。何か、古い歌のような、奇妙な韻律を口ずさむ声が」
殿下が、眼下の地獄を見据えたまま決断を下した。
「深追いはしない。帳簿とレオンを確保し、速攻で帰還するぞ」
俺とルークは、驚愕と疑念の入り混じった目で殿下を見つめた。
この地獄から何かを盗み出すなど、正気の沙汰ではない。
「今から少し試すことがある。化け物どもの動きが止まる、あるいは穴の泥が引く瞬間が来るはずだ。その隙に帳簿を取りに行け」
殿下の瞳は、恐怖ではなく、冷徹な計算で光っていた。
「ただ、命令を忘れるな。帳簿なんかより自分の命を優先しろ。手ぶらでも構わん」
殿下は俺を見据えた。
「レオンが出てきたら、殴ってでも正気にさせて撤退させろ。……私が気絶したら、あとは頼むぞ」
「……おい、まさか本気か?」
俺は目を見開いた。
「そんな玩具一つで、この地獄をどうにかできると思って……」
だが、殿下の瞳に宿る揺るぎない光に押され、俺は言葉を飲み込んだ。
この若造は、勝算なき賭けはしない。
俺は小さく舌打ちし、折れた左腕を庇いながら、唯一動く右手に短剣を握り直した。腰を浮かせて獲物を狙う獣のような姿勢をとる。
ルークもまた、覚悟を決めたように唇を噛み、震える指で最後の一本のボルトをボウガンに装填した。カチリ、という金属音が静寂に冷たく響く。
殿下は懐から、鈍色の金属塊を取り出した。
公国全権委任の宝印。その芯にはマグマのような熱が篭っている。
「始めるぞ」
殿下がそれを、脈打つ黒い穴に向けて高く掲げた瞬間。
世界から音が消えた。
ドクン、と。
殿下の心臓と、宝印に埋め込まれた古代の魔石が同期した——そう見えた。
殿下の体が一瞬硬直し、血管が浮き出る。
「——レムリアの名において命ずる、退け」
殿下が、腹の底から絞り出すように低く呟いた。
同時に、宝印から夜空を切り裂くような透き通った蒼い光が、波紋のようにキャンプ全体へ広がった。
それは破壊の光ではない。侵食を拒絶し、あるべき形へ押し戻す「秩序」の光だ。
光が触れた瞬間、大地を冒していた黒いタールは「ヒィィィィィ」という悲鳴を上げて逆流し始めた。
徘徊していた異形の変異帝国兵たちは、見えない巨人の手で押さえつけられたかのように、ビタンッ! と地面に平伏した。
彼らの背中から醜悪に生えていた黒い蔓が、蒼い光に焼かれて炭化し、ボロボロと崩れ落ちていく。
「今だッ! 行け!」
殿下の、喉が裂けるような絶叫。
俺は疾風のごとく走り出した。
痛みを忘れ、恐怖をねじ伏せ、変異体が動けない数秒の隙を突く。
粘液まみれのキャンプ中央へ躍り出ると、地面に転がり泥に沈みかけていた「兵站帳簿」をひったくるように回収し、そのまま大穴の縁へと迫る。
「レオン! 生きてるか! 返事をしろ!」
穴の底へ向かって吼えた。
蒼い光に照らされ、後退する黒い泥の海。
その中から、ドロドロに汚れ、しかし確かに人間の形をした手が突き出された。
「……あ……あああ……」
間違いなくレオンの声だった。
だが、その声は助けを求める悲鳴ではなく、どこか恍惚とした、聞いたこともない言語の「聖歌」のような響きを帯びていた。
俺は身を乗り出し、その滑る手をガシリと掴んだ。
その瞬間。
ミシリ、と。
殿下の手の中の宝印が、砕けるような嫌な音を立てた。
光が急速に衰え始める。
「殿下! こいつ、重すぎる! 泥が……泥が離さねえ!」
引き上げようとしたが、泥の中から巨大な触手が数本、レオンの腰や足に蛇のように絡みついている。
振り返ると、殿下の右腕に黒い蔓の紋様が浮き出し、皮膚の下を這い回っていた。鼻から血が流れている。
ルークが殿下の背後から肩を支え、叫んだ。
「殿下! 鼻血が! もうやめて、殿下の命が吸い取られる!」
だが、殿下は歯を食いしばり、最後の力を右手に込めた。
「カイル! 3、2、1で引いて、無理なら撤退だ! 行くぞ!」
◇ ◇ ◇
「……クソったれが、分かったよ! 博打の最後の一枚だ、付き合ってやる!」
俺は叫び、泥まみれのレオンの手を両手で掴み直した。
激痛が走る負傷した左腕をも使い、渾身の力で。血管が切れ、傷口から新たな血が噴き出す。
「3……2……1……!!」
殿下のカウントに合わせて、宝印の蒼い光が、死に際の星のような爆発的な最後の一閃を放った。
「おおおおおおおッ!!」
俺は咆哮した。
足元の岩盤を踏み砕き、全身全霊で引き上げる。
ベチャリ、という、巨大な生肉を引き剥がすような嫌な音が響いた。
泥の触手が数本、光に焼かれて千切れ飛び、レオンの体が宙に浮いた。
俺はそのままレオンを抱え込むようにして、キャンプの地面へと背中から転がった。
救出成功。
だが、代償は即座に訪れた。
宝印が放っていた光が、ガラスが砕けるような鋭い音を立てて消失した。
世界に闇が戻る。
振り返った瞬間、俺は見た。
殿下の右腕を走る黒い蔓の紋様が、手首から肘を越え、肩口まで一気に駆け上がっていくのを。
「殿下ッ!?」
ルークの叫び声。
殿下の鼻と口から、鉄の味のする熱い液体がゴボリと溢れた。
そして、糸が切れたように崩れ落ちた。
俺は泥まみれのレオンを抱えたまま、呆然とその光景を見つめていた。
帳簿は手に入れた。レオンも引き上げた。
だが、殿下が——
「……おい、嘘だろ。こんな結末、賭けの対象にもならねえぞ……!」
黒い煤が、静かに降り積もっていく。
足元の地面からは、まだ微かな振動が伝わっていた。
ドクッ、ドクッ。
闇は、まだ終わっていない。
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