11話:門番の継承
敵の軍勢が視界から消え、城内には束の間の静寂が訪れた。
だが、それは安堵の静けさではなかった。鉛のように重い、嵐の前の凪だ。
若き主君は、息つく間もなく父王の寝室へ戻った。
私もその後に続く。
公王エドワード三世は、依然として寝台の上で小刻みに震えていた。
その視線は定まらず、恐怖に引きつっている。
「……消えたか。だが、奴らは退いただけだ。……奴らは、すぐそばにいる」
父王は、戻ってきた息子の手首を縋るように掴んだ。
「息子よ……。帝国や教皇国などは、表の波風に過ぎん。……北だ。北の『鉄の山脈』の奥底で、古き契約の杭が引き抜かれた」
何を言っている。
私は眉をひそめた。呪いの後遺症で、意識が混濁しているのだろうか。
だが、次の瞬間、私は息を呑んだ。
父王が乱暴に寝間着をはだけさせた。
露わになった胸元。
心臓を中心に、本来あるはずのない「黒い蔓」のような奇怪な紋様が、皮膚の下で脈打つように伸びていた。それは血管のようでもあり、植物の根のようでもあった。
「……我が一族が代々隠し続けてきた、『血の刻印』が、目覚めてしまったのだ……」
これは、ただの病ではない。
四十年この国に仕えてきた私でも、見たことのないものだった。
若き主君は、しばらくその紋様を見つめていた。
そして、静かに、しかし確固たる意志を込めて問いかけた。
「父上。『血の刻印』とは何ですか。……そして、今この場で、私に退位する意思はおありですか」
私は驚いた。
この状況で、退位を問うのか。だが、殿下の判断は正しい。
狂気に侵された王の姿を、帝国や教皇国の使者に見せるわけにはいかない。「王は乱心した」と判断されれば、それこそ国が割れる。
父王の目が、一瞬だけ正気を取り戻した。
息子の覚悟を試すような、王としての光が戻る。
「……賢明だな、我が息子よ。お前は私よりもずっと、この『重み』に耐えられるかもしれぬ……」
父王は、自らの胸元に脈打つ黒い蔓を、忌々しげに、しかし慈しむように撫でた。
「レムリア公国が、なぜ大国に囲まれながらこの『鉄の峡谷』を守り続けてこられたか……。それは、我が一族が『門番』だからだ」
門番。
その言葉の意味を、私は理解できなかった。
「北の連峰の地下には、かつてこの大陸を飲み込もうとした『古き神の残滓』が封印されている。我が一族の血は、その封印を繋ぎ止める『杭』なのだよ……」
古き神の残滓。封印。
おとぎ話のような言葉が、この場では恐ろしいほどの現実味を帯びていた。
父王の呼吸が、再び苦しげに乱れた。黒い紋様がドクン、と蠢く。
「『血の刻印』は、封印が弱まった証拠だ。帝国が山を穿ち、教皇国が魔力を吸い上げたせいで、大地の均衡が崩れた……このままでは、世界は闇に飲まれる」
父王は、枕元にある古びた金属の塊を、震える手で手に取った。
公国全権委任の宝印。代々の公王が継承してきた、この国の象徴だ。
「息子よ、全権を譲ろう。だがそれは、栄光ある玉座ではなく、逃れられぬ『呪い』を譲るということだ。それでも……この国を、民を、この絶望を背負うと言うか?」
私は固唾を呑んで見守った。
この問いに、どう答えるのか。
若き主君は、一瞬たりとも迷わなかった。
「背負います。父上が守り抜いたものを、私が継ぎます」
父王は、微かに微笑んだように見えた。
そして、宝印を息子の手に押し込んだ。
「これを受け取れ……。そして、民には私が『隠居し、病癒えるまでお前に国を託した』と告げよ。クーデターなどではない……これは、死にゆく門番から、新たな門番への交代だ」
その言葉を最後に、父王は糸が切れたように深い眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
若き主君の手の中にある宝印。
それは、かつて感じたどんな剣よりも重く、氷のように冷たく見えた。
私は、その場に片膝をついた。
「……殿下。いえ、陛下」
「まだ陛下ではない。父上は隠居しただけだ」
殿下は静かに言った。
「ヴァインよ、この件は誰にも言うな。まだ公表しない。このカードは、私が最も効果的だと判断したタイミングで切る」
私は深く頭を下げた。
「……御意。王の『隠居』と『継承』は、まだこの部屋の壁の中に閉じ込めておきましょう。『鉄獅子』エドワード王が健在であるという幻影こそが、今この瞬間、揺らぐ民に必要な『錨』となります」
四十年仕えてきた。
先代の公王、そしてその父君にも。
だが、これほどまでに重い継承を見届けたのは初めてだった。
栄光ではなく、呪い。
玉座ではなく、杭。
この若き主君は、それを知った上で、迷わず受け入れた。
その時だった。
窓の外から、腹の底に響く不吉な地響きが届いた。
ガラスがビリビリと震える。
私は驚いて窓に駆け寄った。
そして、息を呑んだ。
北の空。
万年雪を冠し、白銀に輝いていたはずの『鉄の山脈』の稜線が、血を吐いたように赤く焼けている。地表から噴き出す、禍々しい紅蓮の光だ。
「殿下……見てください。山が……燃えています」
殿下も窓辺に立った。
そして、私たちは同時に気づいた。空から何かが降り注いでいる。
雪ではない。黒い、粉雪のようなもの。
私が手を差し出すと、それは掌の上で黒い染みとなって溶けた。
煤だ。脂ぎった、異臭を放つ黒い煤。
「……北で、何かが起きた」
殿下は、父王から託された宝印を強く握りしめた。
「カイルたちが向かった先だ。……封印が、破られたか」
その時、窓を鋭く叩く音があった。
一羽の濡れた伝書鷹が舞い込んできた。足には、ルークの紋章。
括り付けられた小さな筒の中には、震える手で書かれたような殴り書きの文字があった。
『——ドワーフの山門に到達。だが、山が割れた。酒だけでは足りない。帝国は「何か」を掘り当ててしまった。レオンとウーゴが……』
文字はそこで途切れていた。
紙の裏には、インクではない、黒い粘り気のある液体が付着している。
殿下はその紙を強く握りしめた。
「……私は北へ向かう」
私は声を絞り出した。
「殿下、それは……正気ですか!? 国家の元首が、単身で戦場へ向かわれるなど……万一のことがあれば、国は終わります!」
「分かっている」
殿下は私を真っ直ぐに見つめた。
「だが、カイルたちの音信が途絶えた。レオンとウーゴがどうなったか分からない。そして父上は、『門番』だと言った。これは王としての責務だ」
殿下はマントを翻した。
「ヴァインよ、教皇国・帝国の使者を待たせるわけにはいかない。すぐ戻る。だが、もし間に合わなかったら、老獪な話術で時間稼ぎを頼む」
「……承知いたしました」
私には、もう止める言葉がなかった。
「城のことは任せたぞ」
殿下は馬に跨った。
黒い煤が舞う夜の闇の中、若き王は北へと駆けていった。
私はその背中を見送りながら、窓辺に立ち尽くした。
北の空は、まだ赤く燃えていた。
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