10話:正論の鎖
城壁の上。
吹き抜ける風には、雨上がりの土の匂いと、鉄錆の気配が混じり合っていた。
眼下には、黒い甲冑に身を包んだ帝国の軍団が城門を取り囲んでいる。数百頭の軍馬が吐く白い息が、朝霧のように立ち込めていた。
「合図は出た! 公王は死に、城内で反乱が起きたのだ! 我ら帝国軍が盟約に基づき『秩序』を回復するため、これより入城する!」
千人長の怒号が、張り詰めた空気を切り裂いた。
もはや交渉ではない。武力による恫喝だ。
自分の手が、剣の柄を握りしめていた。
数で劣る。装備でも劣る。正面からぶつかれば、我らは蹂躙される。
それでも、剣を抜くしかないのか。
だが、若き主君は微動だにしなかった。
風に煽られるマントを背に、城壁の最も高い位置に立ち、眼下の鉄の群れを冷然と見下ろしている。
その立ち姿は、孤独だが、孤立ではなかった。
「千人長! 聞こえているか!」
殿下の声が、軍馬のいななきや鎧の擦れる音を貫いて響き渡った。
「大義名分を欲しがるあまり、目が霞んだか! あの煙は、貴国と通じていた裏切り者セドリックが、捕らえられる直前に放った『偽りの合図』だ」
千人長の顔が、兜の下でわずかに強張るのが見えた。
「証拠に、父王は今、目を覚まされた。反乱などどこにもない。あるのは、裏切り者の掃討が完了したという事実のみだ」
殿下は畳み掛けた。
「それに、貴公らが探している『脱走兵』がいると言い張るなら、城内を隅々まで確認しても構わぬぞ」
城壁の兵たちも、帝国兵たちも息を呑んだ。
「ただし、一兵たりとも武装して門を潜ることは許さぬ。丸腰で、検分を受ける勇気はあるか? 秩序の守護者たる高潔な帝国軍ならば、まさか武器がなければ何もできぬ臆病者ではあるまい」
「……何だと?」
千人長が絶句した。
武装を解いて入城すれば、捕虜も同然だ。拒否すれば「秩序の回復」が嘘だと認めることになる。
自分は、傍らで震えるような高揚感を覚えていた。
この若き主君は、「正論」という名の見えない鎖で、数千の帝国軍の足を縛り付けている。
殿下はさらに言葉の刃を研ぎ澄ませた。
「先ほどから、王代理である私に向かって『若造は信用できない』と言ったり、スパイを送りつけたり、そのスパイの誤情報で攻め込もうとしたり……挙句の果てに、その理由である確認すらビビって行わない」
殿下の声が、氷点下まで冷たくなった。
「いくら我が国が貴国と比べて小国とはいえ、あまりに無礼すぎるのではないか」
千人長の顔が怒りと屈辱で真っ赤に染まった。
「ただ、私としてはあの大帝国がこのような意図を持っているとは考えられない。現地の暴走か、あるいは意思疎通の齟齬か。よって、上層部に確認させていただく。もしこちらからの確認が困るのであれば、一度撤退して自分で説明しに行け」
そして、殿下は最後の一手を叩きつけた。
「この対応が気に食わず、無理やり攻めてくるというのであれば……我々はもう片方の、教皇国側の国境の警備は捨て、この城門のみに全兵力をもって抵抗させていただく」
重苦しい沈黙が戦場を支配した。
自分は、この言葉の恐ろしさを誰よりも理解していた。
教皇国側の国境警備を解く。それは、帝国がレムリアを攻めあぐねている間に、教皇国軍が無防備な背後から帝国軍を刺す機会を与えるということだ。
帝国と教皇国の戦争の引き金を引き、その泥沼の責任をすべて、この千人長一人に負わせるという脅し。
「……おのれ……っ。小国の若造が、これほどの博打を……!」
千人長は、殿下の瞳に「本気の狂気」を読み取ったのだろう。
この男はやる。本気で国を灰にしてでも、帝国軍に傷跡を残すつもりだ。
「……全軍、後退! 国境線まで引き上げろ!」
千人長は荒々しく馬首を巡らせた。
「殿下、この一件、必ずや我が国の外交官が改めて『挨拶』に伺うことになる。首を洗って待っておれ!」
帝国軍の黒い波が、地響きを立てながら城から遠ざかっていく。
城壁の兵たちは、信じられない思いでその光景を見つめていた。
◇ ◇ ◇
続いて、矛先は広間に残る教皇国の聖騎士たちへと向けられた。
殿下は城壁から降りると、そのままの足で広間へ向かい、氷のような視線で彼らを射抜いた。
「いつまで武装状態で我が国に滞在するつもりだ。問題を起こしたのは貴国であるぞ。一度撤退せよ。居続けるというのであれば武装は解除せよ」
教皇国の指揮官は、帝国の撤退を見て完全に戦意を喪失していた。
帝国の脅威がない今、単独でレムリアと戦う大義名分も理由もない。
「……我らは光神の使徒。異教徒のような不当な拘束は受け入れぬ。マルクス様の一件は、あくまで彼個人の暴走であると本国へ報告させてもらう。……退散だ!」
聖騎士たちは、逃げるように城を後にした。
その背中は、来た時の威勢の良さとは対照的に惨めなものだった。
自分は、その光景を見届けながら、胸の奥で熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。
剣を振るうことでしか国に尽くせぬ男だと思っていた。
だが、この若き主君は、言葉だけで二つの大国を退けた。
自分の剣は、この主君のために振るう。
そう決めた瞬間だった。
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