星の瞳
「先生」
そう呼びかけられ見下ろすと、小さな女の子がにっこりと見上げていた。彼女は手に握った名もない花を、先生と呼ぶ男に差し出した。
「これ、あげる」
「ありがとう」
男は、花を受け取り、少女の頭をなでてやった。
「きれいな花だ。食堂に飾ろう」
「うん!」
そのやりとりを聞いていた子どもたちが、手に手に花や草を持って、二人の元に集まった。
「先生、これ」
「ぼくもあげる!」
「おお、みんな……ありがとう」
あっちを向いたりこっちに向き直ったり、くるくると子どもたちの相手をしているうちに、「先生」はよろめき、草むらの上に尻もちをついた。
「先生、何やってるのー」
「だいじょうぶ?」
「ははは、大丈夫だよ」
先生が声を上げて笑うと、子どもたちも笑った。
「もうすぐおやつの時間だ。家に帰ろう」
「うん!」
花を持った子どもたちと、起き上がった先生は、同じ場所への帰路についた。ちょうどその時、午後三時を知らせる鐘が遠くで鳴った。
「先生」と、およそ二十数人の子どもたちは、小さな村の「みなしごの家」で一緒に暮らしている。他にも子どもたちの世話をする職員が二人いるが、たった三人でたくさんの子どもたちの面倒を見るのはとても大変で、毎日が大忙しだ。
十年ほど昔、先生は自分の財産を使ってみなしごの家を建てた。最初に引き取ったのはほんの五人ほどの子どもたちだったが、さまざまな事情から一人増え、二人増え、とうとうちょっとした村ほどの人数を抱えるようになった。先生たちは幼い子どもたちの世話をする一方で、成長した少年少女には文字の読み書きや算数、料理の作り方などを教えた。いずれ彼らが家を出て、社会を渡っていくことができるように。
朝、先生たちは寝坊しようとする子どもたちを起こして回り、パンとミルクを食べさせる。それから、年齢ごとに三つの組に分け、勉強を教えたり、皿洗いや洗濯をみんなで片付けた。大人三人ではとても大変な家仕事も、大勢の子どもたち__物事が「分かっている」年上の子が混ざっていればなおいい__がいれば、あっという間に終えることができる。
昼食をみんなで摂った後は、幼い子どもたちを寝かしつけ、中くらいの年の子どもたちを連れて野外で遊び、年長の子どもたちには勉強をさせた。そして、夕食をみんなで作り、食堂で和やかに語らいながら食べ、夜は広い居間で思い思いの時を過ごした。本を読むのが好きな子がいれば、にぎやかに遊びたい子もいる。編み物や刺繍に精を出す女の子たちもいた。二人の女性職員、デジレとミレーヌは、暖炉の側でひそやかに女同士の話をしたり、絵本を子どもに読んで聞かせていた。
先生は夜大抵、外に出かけていた。村の酒場になじみの友がいるらしい。帰ってくる時は決まって酒の臭いをぷんぷん漂わせていた。けれども、何か事件が起きて先生を呼びにいくと、必ず酒を切り上げて飛んで帰ってくるのだった。
この頃村の酒場では、街に出没する泥棒の話で持ちきりだった。泥棒は、これまで何度も周到なやり方で銀行や金持ちの屋敷から金目の物を盗んでいったが、未だにその正体の手がかりすらつかまれていないらしい。
その泥棒は、とても慎重で、目立つのが嫌いらしい__街から帰ってきた男は、さも見てきたかのように泥棒の話をした。
「路地にたむろするならず者どもも、そいつや、そいつの仲間の話を全く聞いたことがないらしい。裏社会ではそういううわさはあっという間に広まるものなのにさ。それに、その泥棒が盗んだ金貨や宝石を何に使ったのかも、さっぱり分からないらしい。よっぽど捕まりたくないんだね」
「そりゃ、オレが泥棒だったら捕まりたくねえよ」
「ちがいない!」
酒場はどっと盛り上がった。
「義賊かと言えば、そうでもないらしい。盗んだ金は自分で貯め込んで、貧しい奴らに分けてくれることもないんだとさ」
「けちなんだね」
「いやいや、名声が広がって、そこから足がつくのを恐れているのさ」
そんなやりとりを、先生は酒を飲みながら静かに聞いていた。
みなしごの家の「先生」が__街をにわかに騒がせる泥棒であることは、誰にも知られてはいけない秘密である。
先生は、週に一度街へ出かける。表向きは子どもへのおもちゃや本を買ったり、そろそろ卒業する子の働き先を探すためだ。けれど用事を済ませてしまうと、先生は化粧やめがねで手早く変装し、別人の姿で街をぶらついた。盗みに入る獲物を見つけるためである。めぼしい金持ちを見つけると村に帰り、次の週の違う曜日にまた街へ行く。盗む方法はさまざまだった。ものごいをするふりをして庭へ入れてもらったこともあるし、掃除夫のなりをしたこともあった。ある時は、不用心にも大きく開いていたお屋敷の窓から悠々と侵入し、手早く金庫をこじ開けて中身を盗んでいった。
盗みの仲間は一人もいない。偵察から実行から盗品の流通まで、全て先生が一人でやっていた。長く成功するコツは、誰も決して信用しないこと、手順や結果にこだわり過ぎないこと、顕示欲を上手く抑えること。盗んだ金は全て、みなしごの家を運営する資金に使っていた。デジレとミレーヌには、さる篤志家が多額の寄付をしてくれたのだと言ってある。
みなしごの家も、泥棒も、全てが上手くいっていた。けれど先生は決して油断はしなかった。
ある時、一人の男がみなしごの家を訪ねた。街の福祉事業の委員だと言い、みなしごの家をぜひ見学させてほしいと申し出た。先生たちは喜んで受け入れ、家のどこでも、好きに見学して行くようにと言った。
男は子どもたちが楽しく勉強や家事に励んでいる様子をにこにこと眺め、時にはその中に混じり、出された食事をありがたそうに食べた。
「ここは子どもへの世話が、とても行き届いているようですな」
男は言った。
「手伝ってくれる二人の職員がいてこそです。また、子どもたちも、主体的にこちらの仕事を理解してくれているのです」
「こんなにたくさん子どもがいるのに、全員分の服もおもちゃもあるのですね」
「ええ」
男は目を細め、満足げにうなずいた。その時、子どもたちがかけよってきて、先生もおじさんも一緒に遊ぼうと誘った。
野外で子どもたちと遊んだ後、みなしごの家に帰ってくると、年長の子どもたちの間でいさかいが起きていた。
「あんたがとったんでしょう!」
「ううん、とってない!」
先生は怒鳴り合う少女たちの間に割って入り、事情を尋ねた。
「先生、アンヌがわたしの指輪をとりました!」
そう怒っているのは、エディットだ。五歳の時に両親を亡くした彼女は、母の形見の指輪を何よりも大事にしている。
「落ち着きなさい、エディット。指輪はいつなくなった?」
「わたしがお皿を洗っていた間に。指から外してテーブルに置いた指輪がなくなったんです! 前から指輪がほしいって言ってたアンヌに決まってる!」
「よくそんなこと言えるわね!」
つかみかかろうとしたアンヌを押さえ、先生は言った。
「エディット。もう一度よく、辺りを探してみなさい。アンヌ。もし__心当たりがあるのならば、私に言いなさい」
二人の少女は互いを横目で睨んだまま、しぶしぶうなずいた。
その夜、夕食の席で、先生は皆に言った。
「いずれこの家を出て、村や町で生きていく君たちに、何よりもおぼえていてほしいことがある。人を傷つけることも、財物を盗むことも、決してしてはいけない。どんなささいなことであってもだ。最初はたった一回だけのつもりでも、いつかそれは悪しき習慣となり、やめられなくなる。そして__いつかは露呈し、破滅するだろう」
アンヌはスープの皿にじっと目を落とし、小刻みに震えていた。
「また、一方で、過ちを許すことも決して忘れないでほしい。人間は弱い。するつもりのなかった過ちを犯し、長く苦しむことがある。それは決して悪い人間ばかりではなく、誰にでも起き得ることなのだ」
先生とエディットの目があった。彼女はまっすぐに先生を見つめていた。
「どうか皆、友に恥じない善い生き方を」
食事の後、アンヌがエディットに駆け寄り小さな声で言った。
「エディット……ごめんなさい。わたしが指輪をとった。つい、ほしくなって__」
「もうしない?」
「うん。決して」
「わかった。なら、いいわ。ね、一緒にお皿の片付けをしましょ」
寄り添って歩く二人を見て、先生はほっと息をついた。
いつものように酒場へ行こうと外に出ると、後ろから声がかかった。あの、見学者の男だ。
「どちらへ行かれるのでしょうか?」
「酒場へ」
「ご一緒しても?」
「ええ」
先生と男は並んで歩いた。
「さっきは見事な説諭でしたね」
「ああ、夕食の時の……」
先生は気恥ずかしくなり、頬をかいた。男が大きくうなずく。
「ええ。どの口が言っているのだろう、と思いました」
先生は足を止めた。男も倣う。ごく近い距離で、二人はにらみ合った。
「……それは、一体どういう意味ですか?」
そう問いかける先生の声は、少しだけ震えていた。ははは、と男は鷹揚に笑った。
「そのまんまの意味ですよ。街で、人の大切な財産を盗んだ大悪人が、どの面を下げて子どもの盗みに説教することができるのだろう、と。いやはや、私は不思議でなりません」
先生は、ふっと息をはいた。
「言っている意味が分かりません」
「それでも結構。私は自分の思ったことをぶつぶつとくっちゃべっているだけです。聞くも聞かぬもあなた次第。でも、今あなたは、私の話を聞きたくて仕方がないんでしょう。どうやって正体を見抜いたのだろう、あんなに気をつけていたのに……とね」
男はのんびりと話し続けた。
「私は、本業の警部の傍ら、福祉事業にも関わっています。妻が孤児院の手伝いをしていましてね。だから、身分を偽ったわけではありません。__けれど、最近の仕事はもっぱら、例の泥棒を探すことでね。そりゃあもう、靴の底をすりつぶすほど街中探し回りました。けれど、どうしても見つからない。ならず者や盗人をなだめすかして取引をもちかけても、爪の先ほどの手がかりも出ない。
困り果てていた頃、妻からこんな話を聞きましてね。街の近くの小さな村に、とても評判の良い孤児院がある。たくさん子どもを抱えているが、赤を出しているという話はないし、働き始めた子たちもきちんと教育が身についている。さて、一体、金の出所はどこだろう?」
「さるお方が、匿名で寄付してくださったのです」
「それは通用しません。そういうことをしそうな篤志家の方々に確認しました。また、あなたの交友関係も調べました。あなたにお金を出してくれそうな友達など、いないでしょう?」
男__警部は、にっこりと笑った。
「実は私、街で何度もあなたを見かけましたよ。週に一度は街に来ているのですね。買い物はささっとすませ、その後姿を消し、夕方に村へ帰っていきます。空白の時間に、何をしているのでしょう?」
「答える必要はありません」
「そうでしょうとも」
警部は、つっぱねられてもちっとも動じていなかった。おもむに夜空を指さし、先生に言う。
「空を見上げると、数え切れないほどの星がありますね。あれは全て、あなたを監視する目です。何百何千の、あなたに大切な財産を奪われた被害者たちや、彼らが破産したために職を失い、正に今ひもじい思いをしている人々が、怒りを抱いてあなたを見つめています」
先生は思わず、満天の星空を見上げた。きらきらと輝く無数の星たちが何故か恐ろしく感じ、先生はきびすを返し、家に戻った。警部が黙って後をついてくる。
みなしごの家に帰ると、子どもたちがおどろいて出迎えた。
「先生、はやーい」
「お酒を飲みにいったのではないの?」
「一緒に遊ぼ」
わらわらと取り囲む子どもたちを払いのけ、先生は怒鳴った。
「一人にしてくれ!」
そして、自分の部屋に飛び込み、明かりもつけずに閉じこもった。
窓のカーテンを閉め、暗い部屋の中でせかせかと歩き回る。
(逃げなければ……あの男、私を逮捕するつもりだ……だが、逃げるとしてもどこへ? 子どもたちは、デジレやミレーヌはどうなる? 私はお尋ね者になるのか?)
部屋の扉を叩く音がした。
「先生、開けてー」
「ほうっておいてくれ!」
怒鳴り返すと、扉の外にいた子どもたちが泣きだした。人当たりの良い男の声がそれをなだめるのも聞こえてくる。
「坊やたち、居間へもどろうね。先生はね、星が怖くなっただけなのだよ。夜空から静かに我々を見守る星がね……」
「星が怖いの?」
「そうらしいよ。ところで坊や、先生が毎週、どうして出かけるのか知っているかい?」
「知らなーい」
子どもと警部の声が遠くなっていく。先生は、頭を抱え、部屋の中でしゃがみ込んだ。
「あいつを殺すか? いや、この家でそんなことは決してできない……それに、人殺しをしたら縛り首だ。……いや……どのみち、大金を何度も盗んだのだから死刑になる……」
自分の死を想像すると、かわいい子どもたちとの別れが辛く感じるのだった。
「私は決して捕まりたくないし、死にたくもない。このままシラを切り通してやり過ごすしかない……あいつは何も証拠をつかんでいないはずだ」
先生が決意した時、再び扉が叩かれた。
「先生」
「先生、来てください」
優しい声で呼ぶのは、エディットとアンヌの二人だ。
先生が扉をおそるおそる開けると、二人はにっこり笑った。
「先生、居間に降りてきてください」
一階に降りてみると、居間は何故か明かりが消えて、扉の隙間から闇がもれていた。不安を覚え、勢いよく扉を開いた先生は、思わず息をのんだ。
暗い部屋の中で、子どもたちが一人一個火のともったろうそくを持ち、先生を見つめている。きらきらと子どもたちの顔を照らすあたたかい火が、先生の動きで大小左右に揺れた。
そこは、まるで小さな星空のようだった。言葉もなく見回す先生に、一人の男の子が言った。
「ぼくら、星だよ。でも、怖くないよ」
エディットが補足してくれる。
「先生が星を怖がっていると聞いたので、みんなで元気づけようと思ったんです」
「星が怖くて、大好きなお酒を飲みにいけなくなるとかわいそうだから……」
じっと立っているのに飽きた小さな子どもたちが、ろうそくを大きくゆらした。
「きらきら光る、夜空の星よ……」
「こら! ろうそくを振り回さない!」
「ごめんなさーい」
先生はしばらく、黙ってこのかわいらしい星たちを見つめていた。それから振り返ると、後ろに警部が立っている。
「朝になったら、私と街へ行きましょう」
警部の誘いに、先生はうなずいた。それから慌てて言った。
「この子たちは、何も関係がないんです。本当です」
「ええ、そうでしょうとも」
警部はにっこり笑ってうなずいた。




