真っ白な花の樹
美幸は、車窓を流れていく景色を眺めることが好きだった。
季節によってそれは色を変えていく。
今は少し白く霞んだ景色が、冷たさを伝えてくる。道を行く人々の服装も、何処か沈んだ色が多く、たまに突然鮮やかな色が現れてハッとさせられる。
そうしたことをぼんやりと楽しんでいた美幸は、ほんの一瞬、ある路地の奥に視線を釘づけた。
そこに在ったものを確認しようと首を捻って視線で追うが、その時にはもうそれはずっと後ろの景色と消えていく。
ただ、一瞬。
ほんの一瞬だけ捉えただけの景色が、瞼の裏に焼き付いている。
──真っ白な花。
なんという樹かは判らない。
だが、大ぶりの真っ白な花をいくつも付けた樹が、そこには在った。
たったそれだけなのに。
美幸の心はざわざわと音を立てた。
駅に着き「此処で降りてしまおうか」という気持ちが沸き起こる。
しかし、どうして〝車窓から見えた花の樹が妙に気になったから〟という理由で、仕事を放り出せるだろう。
一歩踏み出し掛けていた美幸に、隣に立つサラリーマンがちらと神経質そうな視線を投げる。
それを感じながら、マフラーに鼻先を埋めた。
今日は、特に寒い。
その日一日の仕事は、殆ど記憶になかった。
パソコンにあれこれと打ち込んだり、書類を眺めたり、電話を取ったりしていた記憶があるが、いざ何をしたのかと思い出そうとすると、曖昧だった。
TODOリストのチェックは全て入っているし、特に確認の連絡も入っていないから、問題はないのだろう。
それよりも、頭にあるのは、あの真っ白な花のことだった。
美幸は使い慣れた駅で、乗り慣れた電車に乗り込み、考えた。
もうこうした暮らしを始めて十年になる。
今までに、あのような真っ白な花を見掛けたことがあるだろうか。
勿論、あの真っ白な花がある町を歩いたことはない。それでも、出勤時どころか休日に出掛ける時でさえこの路線を使うのだから、十年もあれば一度は車窓に見る筈だった。
車窓の景色を眺めることが趣味ともいえるのだから、見逃すことは考えられない。
では、何故。
随分と大きな樹だった。ここ最近で、わざわざ狭い路地に植えたというのだろうか。
考えるうちに、電車は少しずつあの樹の最寄り駅へと進んでいく。
──真っ白な花。なんの樹だろう。
ソワリと胸が疼いた。
次の停車駅を表示するサイネージを見れば、最寄り駅が迫っていた。
だが、偶然目に入った花の樹を見る為だけに他に何の用もない駅で降りるのは、如何なものだろう。明日も仕事なのだ。疲れてもいる。加えて、不安もあった。
妙な焦燥感。どうしても頭を離れない花の、真っ白な姿。
電車が速度を緩め、停まる。
扉が開き、数人が降りていく。
美幸は入り込んだ外気を頬に受けながら、身じろぎした。
──どうしよう。
ふいに、鼻の奥を甘い香りが過った。
その瞬間に、美幸は席を立っていた。閉まる直前の扉が肩に当たり、よろけながら外に出ると、全身が冷気に包まれる。
振り返ると、扉は完全に閉まり、扉の周辺に立っていた人々が怪訝そうな顔で美幸を見やっていた。
頬が熱くなり、冷気と相まってピリリと痛む。
──まぁ、降りちゃったんだし。
美幸は、何事もなかったかのように駅のホームを歩き始めた。
一度も訪れたことのない町。
車窓から眺めるだけだった町。
それなのに、何故か足は自然と動いていた。
不思議だった。
考えずとも足が動く。勿論、車窓から見えたのだから線路沿いであることは確かだが、それでも訪れたことのない道を、何の迷いもなく歩いている。
鼻の奥の甘い香りが誘っている。
足を進めるうち、甘い香りは膨らみ辺りに満ちた。
知らず急いていた足で、角を曲がる。
──そう、此処を曲がれば……。
駆け込んだ美幸は、思わず足を止め、ゆっくりと視線を上げた。
「わぁ……」
真っ白な花が咲き乱れ、まるでその色が辺りに降り注いでいるようだった。
街灯もないその路地に、月の光を受けた花がぼんやりと発光している。
美幸はその光景に魅入り、息をするのも忘れてその前に立ち尽くした。
──綺麗……。
暫くそうしていた美幸は、ふと此処がどういう場所なのかということが気にかかった。
いくら見事な花の樹でも、他人様の家の庭をジロジロと眺め続ける訳にはいかない。
あまりに見事な花の樹の向こうを覗くようにして見ると、奥にある建物は、空き家だと思われた。窓の擦りガラスはヒビ割れ穴が開き、古めかしい見た目の建物は、何処か今にも崩れ落ちそうな雰囲気を纏っている。
表札を見やれば、空白だった。門扉も歪み、雑草が生い茂っている。
「なんだ、誰も居ないのか」
思わず呟き、ハッとして辺りを窺う。
改めて見てみれば、路地は思っているよりも狭く、建物の壁と壁に挟まれているだけだった。その奥にぎゅっと詰まるようにして今にも崩れそうな建物があり、そして真っ白な花を咲かせる樹が在る。
車窓から見えたのが不思議だった。
みっしりと路地いっぱいに枝を広げ、真っ白な花を咲かせてる樹。
何処か満ち足りた思いでそれを見上げていた美幸は、ふと樹の横から覗く視線に気が付き声を上げた。
「ご、ごめんなさ──」
「綺麗でしょう」
樹の横に立つ老婆が言った。
老婆は髪を緩く結い、まるで枯れ枝のような手で樹の幹を撫でている。
「綺麗でしょう」
嗄れた声で、老婆はもう一度言った。
「……はい」
美幸は、問われるままに答えていた。
何処か頭の隅で恐れを抱いている。それなのに、意識はスッと、真っ白な花と老婆の声に向く。
「この樹はずっと此処にあるの」
「……そう、なんですね」
「そうして、待っているの」
待っている。
この樹はずっと此処で。
「……待っている? 何を?」
「新しい女を」
「新しい……女?」
老婆が引き攣れたような笑い声を上げる。
樹の幹が、老婆の触れた所から赤く染まり、まるで脈打つように動く。
美幸は、体の芯がグルグルと振り回されているようによろめいた。
ふふ、ふふ……。
花が、真っ白な花が、笑っている。
「綺麗でしょう」
見上げれば、真っ白な花は徐々に赤く染まっていた。
熟れて、触れたら破裂してしまいそうに──赤い。
「花は、待っていたの」
「……待っていた」
「さぁ、おいで」
幹から手を離した老婆が、妙に艶やかな仕草で手招く。
「新しい女」
「あたらしい……おんな」
美幸は、老婆の手招くままに門扉を引いて建物へと歩み寄った。
それは、古めかしく、今にも崩れてしまいそうだ。
玄関扉を開ければ、饐えた臭いが鼻を掠めたが、しかしすぐに甘い香りがそれを覆い隠す。
「さぁ、おいで」
老婆が歌うように言いながら、廊下を進んでいく。
「さぁ、おいで」
廊下の先にある扉を開け、顔だけ覗かせた老婆が手を招く。
──行かなきゃ。
美幸は手招かれるままに廊下を進み、部屋に足を踏み入れた。そうして、暗く沈む部屋を数歩進んだところで、何かに足を取られて蹴躓いた。
足を踏みしめ振り返ると、そこには黒い塊が横たわっていた。
枯れ枝のような腕で、同じように枯れ枝のような脚を抱える女が、そこには在った。
ふふ、と老婆が笑った。
老婆はにんまりと笑うと、静かに廊下を戻って行き、すぐに玄関の扉が開閉する音が響いた。
窓の擦りガラスに開いた穴から、老婆の後姿が遠ざかっていくのが見える。
老婆の後ろ姿は、路地を出る前に崩れるように消え去った。
ふと床を見れば、枯れ枝のような女の姿もまた消えていた。
美幸は床に寝転がり、脚を抱えた。
擦りガラス越しに、花の真っ白なシルエットが見えている。
──綺麗……。
この樹は、ずっと此処で待っている。
新しい女を。
甘い香りが体中いっぱいに満ちていく。
美幸は、瞼を閉じて、深く息を吐いた。
……ふふ。




