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帰ってくる妻

作者: piyo


「おかえりなさい。」


長い金の髪を櫛で梳かしながら、鏡の前に座っている()()

部屋の中に明かりは無く、扉から差し込む光だけがそれを照らす。


「ぅぁ゛…」


男は腰が抜けそうになりながら、扉の枠へとしがみつき、声のする方を凝視する。

後ろ姿は間違いなく自分の妻。白いネグリジェと色素の薄い金の髪が周りの景色からぼんやりと浮き上がる。


けれども、彼女ではありえない。彼女はここにいるはずがないのだ。


ゆっくりと、時計の秒針のようにカチリカチリと首が回る。


「きょうも、あなたの帰りを、お待ちしてオリマシタ」


男の方を振り向き、コトリと傾いた首は、嫌な方向に曲がっていた。



トリジアン商会の会長、サージェンス。

祖父の代に築かれた小さな商会を、自らの代で隣国にまで名をとどろかせるほどに成長させた、若き才覚の持ち主である。扱う商品のターゲット層を富裕層に定めたことも功を奏した。みるみる間に財を築き、国内では有数の資産家となっていた。


そんな彼は、上顧客の一人である財閥の娘と婚姻を結んだ。政財界との繋がりも得て、彼の人生は順風満帆かと思われた。


しかし、どれほど精巧に作られた品であっても、時が経てば綻びが生じるもの。

サージェンスにとってそれは、妻アイリーンとの結婚生活であった。


アイリーンは元より上流階級に生まれた、蝶よ花よと大切に育てられた娘である。プライドは山のように高く、身に着けるもの一つにしても全てにこだわりを見せた。それこそ、夫のサージェンスの挙動ですら。


最初こそ、自分さえ我慢すれば、夫婦として上手くやっていけるだろうと思っていた。けれども、生まれ育った環境の違いからか、考え方のズレはどうにも埋めることができなかった。


サージェンスが贈り物を送れば、

「ありがとうございます。けれど、その品はわたくしには少々貧相に見えますわ。別のものをご用意いただけるかしら?」

と突き返される。


出先についていくと言うから連れて行ったのに、

「そのような宿で宿泊するくらいなら、今から馬車で帰らせて頂きます。」

と高級ホテルでないと満足しないという。


全てに対して一流を求めることは悪いことではない。しかし、何事にも限度というものはある。自分の身に着けるものは全てアイリーンにお伺いを立てないといけなくなり、特に食の好みに関して一切の妥協を許さず、サージェンスの母がよく作っていた彼の好物でもある家庭料理の類は、彼女に隠れてしか口に入れることが叶わなくなっていた。


サージェンスが彼女と相いれないと思うようになった決定的な理由は、アイリーンが彼の家族を見下してきたことだった。もともとサージェンスはかろうじて中流階級に入る程度の家柄の生まれである。同じ血を分けた家族であるにもかかわらず、夫の目の前で選民意識丸出しの発言をするアイリーンに、サージェンスは嫌悪感しか抱けなかった。


(息が詰まりそうだ)


彼はいつしか、仕事で家を離れているときしか、心を落ち着けることができなくなっていた。




そんなサージェンスとは対照的に、アイリーンといえば、彼を繋ぎ止めようと躍起になっていた。

もともとこの結婚は、アイリーンがサージェンスに一目惚れしたことがきっかけで結ばれた縁であった。

頭の回転が速く、あらゆる階級の者との会話で培われた話術、そして誠実そうな面差しは、誰にでも好感を抱かせるものだった。

加えて、彼は莫大な富を手にしている。

庶民の出であったとしても、サージェンスは若い女性たちにとってあまりにも魅力的すぎた。


数多のライバルがいた中、アイリーンは父の権力を存分に使い、サージェンスの妻の座を手に入れた。

苦労して手に入れた夫だったが、結婚してからというもの、日に日に彼の態度が冷たくなっていることを、アイリーンも薄々感じていた。


次第に彼は家に寄りつかなくなり、たまに帰ってきても「仕事で疲れた」と言って自室にこもってしまう。


それでも、彼が誠実な男であることに変わりはなく、帰ってきたときは――彼女がたとえ先に就寝していたとしても――必ずアイリーンにひと言声をかけてくれるのだった。


お互い家で顔を合わすこともなく、たまの休暇もふらりとどこかへ出掛けてしまう夫であったが、それでも、やっと手に入れた彼を、アイリーンは手放そうとはしなかった。寧ろ、子供ができれば――彼の心をつなぎとめられるのではないか、とさえ彼女は考えていた。しかし、かつてはあった夫婦の夜の営みも、最近ではまったくなくなっていた。




この日もまた、夜遅くに帰ってきたサージェンスであるが、彼は儀礼的に「おやすみ」の一言を言いに行くために、夫婦の寝室を訪れていた。

常であれば、先に就寝しているアイリーンに一声かけ、そしてそのまま自室へと戻るのだが、この日は様子が違った。


扉を開けた途端「おかえりなさい。あなた。」と久方ぶりに聞く妻の声が、彼の耳に届いた。


アイリーンは白いネグリジェの前を(はだ)けさせ、扉の方へとゆっくりと歩み寄ってくる。


「寝ててくれていいのに…」と面倒な気持ちを隠しつつ、「ただいま。まだ起きていたんだね。」と声をかけた。


「ええ、あなたの帰りを心待ちにしておりました。」


ねっとりとした笑みとともに、サージェンスへとしなだれかかるアイリーン。キャンドルの明かりが揺らめき、()()()()()()()に持ち込みたいことが嫌でもわかった。


しかし、すでに触られることすら苦痛に感じていたサージェンスは、すっと身体を離し、アイリーンにやんわりと断りを入れた。

「悪いんだが…明日も早い。身体を清めてすぐに寝るとするよ。」


以前にも同じ言葉で誘いをかわしたことがある。そのときは、アイリーンもすぐに引き下がってくれた。

だが、今回は違った。


「…いい加減にしてくださる?毎日毎日、こんな遅くに帰ってきて、私をないがしろにして!」


アイリーンは怒りをあらわにし、掴みかからんばかりの勢いでサージェンスに詰め寄った。


「ないがしろになんかしていないさ。それに、家に金は入れいている。君には自由に使ってくれていいと伝えてあるじゃないか。」

「そんなこと!わたくしはお金では無く、あなたの気持ちが欲しいんですわ!わたくしへのプレゼントも最初の頃だけでしたし、外出にも一人で行ってしまう、社交の場でもすぐにわたくしを放置してどこかへ行ってしまでしょう?これをないがしろと言わずして何とおっしゃるの!?」

「プレゼントをしても、君は喜ばないだろう?外出をしても文句しか言ってこないし、それに社交の場は私にとっては商売のチャンスなんだ。君をわざわざ伴う必要なんてない、自由に楽しんでもらうつもりでいたんだ。…もう行ってもいいだろうか?疲れているんだ。」


サージェンスはヒステリーを起こす妻に辟易し、踵を返そうとした。しかし、


「お待ちなさい!話はまだ終わってなくてよ!毎晩帰宅が遅くなる理由を聞かせて頂戴。夫婦の寝室も一向に使おうとなさらないし、あなた…まさかどこかで女を買ってるんじゃないでしょうね?わたくしはいつも一人で夜を過ごしているというのに!」

「は?君という妻がいるのにそんなことをするはずがないだろう。」


実際、他の女性に乗り換えたいと思ったことは何度もあった。だが、もし浮気などしようものなら、彼女の家族が黙っているはずがない。おそらくではあるが、そんなことをしたら社会的に抹殺されるだろう。それほどの権力を、彼女の一族は握っていた。


「じゃあ、あなたの下賤なご友人たちがあなたを引き止めてるのかしら?交わる相手はお選びになってくださらないと、ほんとうに……。あなたまで低俗な人と思われてしまうわ。」


友人を貶めるようなアイリーンの言葉に、サージェンスは一瞬にして激昂した。

以前にも、彼女が自分の家族を見下すようなことを口にしたとき、きつく注意したはずだ。

それにもかかわらず、彼女の口から再び傲慢がこぼれ落ちるとは――もはや、彼には黙って受け流すことなどできなかった。


バシンッ


サージェンスは思わず手を振り上げ、勢いのままアイリーンの頬を打った。


これまで積もりに積もった鬱憤もあったのだろう。自分でも驚くほど、力がこもっていた。

アイリーンの身体がドアの縁へとぶつかり、鈍い音とともにその身体が大きく崩れ落ちた。金の長い髪がはらりと足元へ広がる。


サージェンスは、目の前で倒れた妻の姿を見た瞬間、はっと我に返った。女性に手を上げるなど、どんな理由があろうと許されることではない。衝動に任せてとった自分の行動に、愕然とした。


「ア、アイリーン…すまない、つい、カッとなって…」


倒れたまま起き上がろうとしない妻に向かって、サージェンスは恐る恐る歩み寄った。

暴力を振るわれたのだ、きっと感情を爆発させるに違いない、そう思っていた。

だが、アイリーンは微動だにしなかった。


…様子がおかしい。


サージェンスは慌ててうつ伏せの彼女の肩を掴み、自分の方へ振り向かせた。

しかし、その身体にはまったく力が入っておらず、まるで人形のようにだらんとしていた。


「アイリーン?おい、アイリーン!」


肩を揺さぶっても、先ほどと何ら変わらない。

サージェンスは嫌な予感に襲われ、咄嗟に彼女の胸に手を当てた。すると、ゆっくりと上下する胸の鼓動が感じられた。どうやら気を失ってしまっただけのようだ。


(よかった…生きている)


彼は彼女を抱き上げ、ベッドへと寝かせた。


申し訳ないことをしたとは思うが、衝動を抑えることはできなかった。むしろ、清々したと言ってもいいだろう。彼女が目を覚ましたときに自分が暴力をふるってしまったことを都合よく忘れてくれないだろうか…

おそらくこれがきっかけで離縁になるかもしれない。けれども、それはそれでサージェンスにとっては好都合だった。


彼は残っていた仕事を軽く片付けるため、眠っているアイリーンを気にしながらも、自室へと戻った。

そしてしばらくの後、アイリーンの様子を見に再び寝室へと戻ってきた。

ベッドで寝ている妻は、先程サージェンスが部屋を出て行った後となんら変わらないように見えた。

…いや、変わらな過ぎた。身動き一つせず、その顔はどこか青白い。


ジワリと嫌な汗が額を伝う。


冷たくなっている手をとり、脈を測る。しかしドクドクという音は一切感じられず、離した腕はだらりと下へ落ちた。


「うぁ、」


頭の打ち所が悪かったのだろう。彼女の頭から出血は一切見られないのだが、内部で損傷を負ってしまっていたのかもしれない。彼女の身体はすでに冷たくなっていた。


「なんてことだ…」


サージェンスの足がガクガクと震え出し、たまらずその場でしゃがみこんでしまった。

妻を殺してしまったという恐怖もあるが、殺人を犯してしまったことで、今まで築いてきたものが全て消えて無くなるということが、彼にとっては何よりも恐ろしかった。


こんな、一度も愛することがなかった妻なんかのために、自分の人生は――


絶望のあまり、彼の視界は真っ暗になった。

そのとき、彼の脳裏にひとつの考えがよぎる。

――彼女が自ら命を絶ったことにすれば、自分は罪に問われずに済むのではないか、と。


幸いにして、使用人たちは既に家に帰宅している時間である。中流階級に生まれたサージェンスは、自身が上流階級の一員に加わってからも、住み込みの者を雇おうとはしなかった。この場には、妻と自分しかいなかった。


アイリーンの身体の下に手を入れ、窓元まで横抱きで移動する。それから、なんの躊躇いもなく窓枠からその身体を下へと投げ捨てた。


ドンっという鈍い音が響く。明かりを持って下を覗くと、真っ逆さまに落ちていったせいか、頭が変な方向に曲がっているのが見えた。


――明日になって使用人が出勤してきたとき、彼女の身体は発見されることとなるだろう。

自分は遅くに帰って来たので気が付かなかったとでも証言すればよい。

寝室には自分と飲もうとでも思っていたのか、ワインとグラスも置いてあった。上手くいけば、彼女は酒に酔って、誤って落下したと判断されるはずだ。


大丈夫、…大丈夫。自分がやったなんてバレやしない。


ガタガタ震える指を落ち着けようと必死に握りしめ、サージェンスは仕出かしたことの大きさに眠れぬ夜を過ごした。




「おはようございます、旦那様。」

「おはよう。」


執事が出勤後に自室を訪ねてきた。しかし、サージェンスの予想に反して、いつもとなんら変わらない様子で今日のスケジュールについて話始めた。


「本日のスケジュールですが、」

「待て。今朝、使用人たちが騒いだ様子は無かったか?」

「?使用人が…ですか?何か騒がしいことがございましたでしょうか。」

「いや…」


執事の様子からして、アイリーンの死体はまだ誰にも発見されていないらしい。

ならば、自分も気づかぬふりをしてやり過ごすしかない。


「ああ、そういえば」


ふと思い出したように、執事が口を開いた。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「散歩…だと?」


サージェンスの驚いた様子を、執事は別の意味で解釈したらしい。


「旦那様が驚くのも無理は無いですよ。普段であればまだこの時間は就寝なさっているというのに。」


しかし彼にとっては妻の行動が珍しいから驚いたのではない。

散歩など、できるはずがないのだ。


「その、妻は特に変わった様子は…」

「いえ、とくには。ただ、少し頭を痛めたと言って首をしきりに気にしておいででした。頭痛薬を勧めたのですが、断られてしまいました。」

「頭を…」


まさか、転落したあと、息を吹き返したとでもいうのだろうか。

けれども、昨日、確かに彼女の脈は止まっていたし、窓から落とした際に、首の骨が折れているようにも見えた。

それなのに、散歩に行っただと?

仮に彼女が息をしているとしても、全身は打撲にまみれ、重体であるに違いない。

にもかかわらず、歩き回っているという事実に、得体の知れぬ恐怖が全身を這い上がった。


「今日は朝食はいい、すぐに出る。」

「はい、承知いたしました。」


サージェンスが朝食を取らずに出ていくことはままあるため、特に疑われることもなく準備に取り掛かる。

そうして、彼は屋敷からただ逃げ出したいという衝動に取り憑かれ、妻の様子も確認せぬまま屋敷を後にした。



その日のサージェンスは注意力が散漫で、大事な取引の場でもミスを連発し、契約は先送りとなってしまった。やりきれない気持ちを晴らすため、酒場で一杯ひっかけてから帰宅すると、使用人たちはすでに帰路についた時間となっていた。

…いま、この屋敷にいるのは妻ただ一人である。


(——アイリーンは今、どうしているんだろうか)


夫に殺されかけ、奇跡的に助かった妻。

一体何故、息を吹き返してしまったのだろうか。


結局その日、サージェンスは夫婦の寝室を訪れることはできなかった。



「おはようございます、旦那様。」

「おはよう。」


次の日も、何も騒ぎが起こるでもなく、変わらぬ朝を迎える。

次の日も、次の日も――ただ、時間が過ぎていく。

あの日から変わったことと言えば、早朝、妻が必ず散歩に行ってしまうこと、そして帰宅したときに自分が寝室に寄り付かなくなってしまったことだけだった。


「あの…旦那様。一つよろしいでしょうか。」

「?どうした。」


執事から呼び止められたのだが、どうやら彼の隣にいた掃除婦から話があるようだった。


「お時間を取らせて申し訳ございません。お気づきかもしれませんが、最近、屋敷の中に少し臭いが漂っておりまして…。手分けして原因を探しているのですが、なかなか見つからず時間がかかっております。そのため、一応ご報告しておいたほうがよいかと思いまして、お話させていただきました。もしかすると、屋根裏か床下のどこかに動物の死骸があるのかもしれません。引き続き、原因を調べてまいります。」


「わかった、引き続きよろしく頼む。」


咎められるとでも思っていたのか、掃除婦はほっと胸を撫でおろす。

正直、言われるまで全く気がつかなかった。

しかし、自分はいいとして、アイリーンはどうだろうか?いつも香水を山のように振りかける癖のある彼女は、臭いに関しても非常に敏感である気がした。


「ちなみに…この件について、妻はなんと言っている?」

「特に何も言われておりません。」

「…そうか。」


あの一件以来、自分が避けているということもあるが、サージェンスはアイリーンとまったく顔を合わせなくなっていた。向こうから接触を図ってくるわけでもなく、かといって家族に泣きついたり、助けを求める様子もない。不思議といっていいほど、静かで大人しかった。


(いい加減、彼女に向き合わなくては…)


「いま、妻がどこにいるかわかるか?」

「はい、奥様は今日も朝から散歩に出ておいでです。」

「また散歩か…」


まあいいだろう。帰ってきたら、就寝前に彼女のもとへ顔を出そう。

サージェンスは、アイリーンが死んでいなかったという事実を、時間の経過とともに少しずつ受け入れ始めていた。そのせいか、彼女に抱いていた恐怖の感情も、いつしか薄れつつあった。




トントン


結局、今日も帰宅が遅くなってしまった。

外から見た家の明かりは寝室を除いて全て消えていたため、また屋敷内は妻一人になっていた。


「アイリーン、入るぞ。」


扉を開けると、強烈な臭いが鼻に漂ってきた。

堪らず腕で鼻と口を押さえる。


外から見たはずの明かりは消えており、扉から差し込む光だけが中を照らす。


「おかえりなさい。」


声のする方に目を向けると、こちらを向かず鏡の前に座って長い髪を櫛でゆっくりと上下に梳かしている姿が見えた。


後ろ姿は間違いなく自分の妻。白いネグリジェと色素の薄い金の髪が周りの景色からぼんやりと浮き上がっている。


けれども、その姿からは生き物の生気を感じることができなかった。

よく見ると…首の曲がり方が異様なのである。また、腕の動きもどこかぎこちない。

まるで妻ではない奇妙な生き物が、必死に人の真似をしているような…


サージェンスは思わず扉を閉めて逃げ出したくなったが、言いしれぬ恐怖感で足がすくみ、その場から動くことができなかった。


「きょうも、」


ゆっくりと首が少しこちらを向く。

そして、まるで時計の秒針のようにカチリ、カチリとこちらを振り返り始めた。


「きょうも、あなたの帰りを、お待ちしておりました。」


コトリと首が横に大きく傾く。

嫌な方向に曲がった首を手で支えながら、()()は椅子から立ち上がった。


「ぅぁ゛…」


サージェンスは腰が抜けそうになりながら、扉の枠へとしがみつき、目の前の光景を凝視する。


「あの日から、頭が痛くて痛くて」


ガクンと、膝が折れる。

けれどもなんとか足を引き摺りながら、サージェンスの方へと歩みを進める。


「身体中痛くて痛くて」


これは自分の妻ではない。


彼女ではありえない。彼女はここにいるはずがないのだ。あのとき死んでいたはずなのだから。


いくつもの虫が身体の周りを飛び回っている。

羽音が耳を何度も掠める。


「リハビリもしているのですが」


カクン、カクンとおぼつかない足取りでこちらへ向かってくる。髪が邪魔をして顔はよく見えないが、見てしまったが最後、自分の心臓は止まってしまうのではないかと思えた。それほどまでに、今のサージェンスは恐怖に震えていた。



「うまく歩けないの」



突如として、彼がいる場所よりも、一歩後ろの場所で、動きが止まった。



「誰のせいだと思いますか?」



「やめろ、来るな、」



「答えなさい」



「あ、ぁ゛、」


カタカタと歯がかち合う音が鳴る。それ以上に、心臓が恐怖であり得ない音を出している。


それの手がサージェンスの頬へと伸びた。気持ちの悪い冷たい感覚が皮膚を伝っていく。


「きょうも、あなたの帰りを、お待ちしてオリマシタ」

「きょうも、あなたの帰りを、オマチシテオリマシタ」

「きょうも、あなたのカエりを、オマチシテオリマシタ」

「きょうも、アナタのカエりを、オマチシテオリマシタ」

「キョウモ、アナタノカエリヲ、オマチシテオリマシタ」


オートマタの人形のようにカタカタと同じことを繰り返し、サージェンスへと身体を絡めていく。その動きは、まるであの晩の再現かのようだった。


「やめろ!離れろ!やめてくれ!俺だ!俺が君をあの窓から落としたんだ!俺のせいだ!!!」


ねちゃっという音と、つんざくような異臭。

サージェンスの顔は涙と汗でグチャグチャになっていた。


彼の懺悔を聞き、妻のようなものは、フフフッ、と嗤った。


「これからは、ずっと、いっしょですわね」


顔はゆっくりと――まるで重力に逆らうように――彼の目の前で持ち上がっていった。

髪の合間から、ようやくその素顔が覗いた瞬間、

サージェンスの恐怖は頂点に達し、彼の目は飛び出さんばかりに見開かれた。




陥没した頭と大きくひしゃげた顔面。




眼球はどこにあるかわからなかったが、口は弧を描き、その真っ黒な穴は決してサージェンスを捉えて離さなかった。





その日、トリジアン商会の会長サージェンスが遺体で発見されたと新聞で報じられた。しかし、その死には不可解なことが多いという。

まず、彼が発見されたのは自宅の庭。死因は2階の窓からの転落死と見られているが、なぜか彼の足には身元不明の女性と思われる遺体が覆いかぶさっていたという。

その身元不明の遺体は、最初、衣服などから会長の奥方と思われたのだが、その場合、色々とつじつまが合わないことがわかった。

遺体は腐敗と損傷が酷く、死後数週間は経っているとのこと。もし、その身元不明の遺体が奥方である場合、計算が合わないのだ。彼女の姿が最後に目撃されたのは昨日のことであり、これは屋敷に仕える使用人たちから証言が取れている。

また、発見されたサージェンスの顔は恐怖に引き攣れた表情をしており、(なんら)かの事件に巻き込まれたのではないか、というのが治安判事の見解であるという。



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