9話 恩返しの神様
健二が向かったのは、アパートからほど近い池。住宅地の中にひっそりと存在していた。
広さはちょっとした運動公園ほど。管理はされておらず、雑木林が池の周囲を囲っていた。道はなく、地面には雑草が生えている。
そんな中を、健二とネコマタは迷いなく池の畔まで進む。そこには、今どき珍しい古びた手漕ぎ木船があった。
健二はネコマタとともに木船に乗り込み、舫いを解く。そして、慣れた手つきで船をこぎ出した。
向かう先は、池の中心部。鬱蒼と茂る木に覆われた小島である。
ここに、小さな神社があるのだ。
木船を島に横付けし、ネコマタに続いて上陸する。 今にも崩れそうな赤鳥居の傍らに、苔むした石柱が立っている。
石柱には『夕陽ノ万津神社』の文字。それが、この忘れ去られた神社の名前だった。
鳥居の奥にある社に参拝してから、健二は腕まくりをした。
「……よし」
持参した掃除道具で、境内と社の掃除を始める健二。
こうしてほぼ毎日、1時間ほど神社を綺麗にするのが彼の『日課』なのだ。
――実はこの日課も、恩返しの一環である。
夕陽ノ万津神社は、健二にとってとても縁の深い場所だ。
6歳の頃、健二は大火事に見舞われた。その際、母親とともに一時避難したのが、池の中央にあったこの神社である。
健二の母は由緒正しき黒薔薇家の娘だったが、父親は貧しい家の生まれだった。当時、母親とともに父方の実家を訪れていたときに、運悪く被災したのである。
健二は、この神社に命を救われたと思っている。
輝夜と離ればなれになったあと、恩返しの誓いを立てたのもこの夕陽ノ万津神社だ。
だから健二は、時間さえあれば夕陽ノ万津神社を訪れ、たったひとりで掃除をしてきた。
佐藤健二と名前を変え、あのボロアパートでひとり暮らしをするようになってからは、ほぼ毎日この日課を続けている。たとえ天候が悪くても、体調がすぐれなくても、日課を欠かしたことはなかった。
ここに来ると、いつも不思議と落ち着いた気持ちになれる。
感情の欠落した健二にとって、ここはとても貴重な場所なのだ。
あいにく霊感はまったくない健二だったが、夕陽ノ万津神社のおかげで、神々の存在を信じるようになっていた。
――言葉を換えれば。
彼が霊感商法に何度も引っかかるようになったのは、この神社に出会ったことが原因と言える。
ひと仕事終えて汗を拭った健二は、社の前で丁寧にお参りをした。
そして、ポケットから怪しげなお守りを取り出す。
四隅に安っぽいガラス玉があしらわれていて、いかにも怪しい。200円ほどのカプセルトイにありそうなデザインのそのお守りを、健二は両手で握りしめた。
「……うん(たかちゃんを助けられたし、今度のお守りは効果がありそうだ)」
顔は無表情のまま、内心満足げに頷く。
――その直後だった。
突然、健二の眼前に巫女服姿の不思議な美少女が現れた。
見た目は高校生くらい。だが、雪のように真っ白で豊かな髪と深紅の瞳は、とても日本人とは思えない。
いや、人間とも思えない。
虚空から突然出現した美少女巫女は、健二に向かって叫んだ。
『霊感商法に引っかかるなと、何度言えばわかるんじゃーっ!』
怒り心頭である。
柳眉を逆立て、古風な言い回しで容赦なく叱責する。
握り拳をブンブン上下に振るオーバーリアクションまでして、健二に訴えかける巫女少女。
――しかし、健二は無反応だった。
巫女少女の声は健二に届いていない。
それどころか、姿さえ見えていないのだ。目の前にいるのに。
少女は人間ではなかった。
この夕陽ノ万津神社に住まう神様なのだ。
名を夕津姫という。
夕津姫はがっくりとその場に膝を突いた。ワナワナと肩を震わせながら、自らの両胸に手のひらを当てる。
『なぜ、なぜじゃ……そんな見た目だけ怪しげで神力のしの字もないオモチャよりわしの方が100万倍すごいのに。あんなことやこんなこともできるんじゃぞ……! そんなことやどんなことだって可能じゃぞ! わし、それなりに見た目には自信があるし!』
『夕津姫様。神様にあるまじき色ボケ発言はやめたほうがいいにゃ』
すぐ側でツッコミの声。健二の隣に座るネコマタだった。
彼女はただの猫ではない。神である夕津姫に仕える眷属だった。オカルト好きの健二が趣味で付けた名前が、偶然にも彼女の正体を言い当てていたのだ。
『無駄遣いする健二しゃんも大概だけど、夕津姫様も洒落にならないにゃ』
『だってケンジには何でもしてやりたいんじゃもん』
『じゃもんって。健二しゃんには姿も見えてないし、声も聞こえてないんだから、可愛げ出すだけ無駄な足掻きにゃん』
『我が眷属がいじめる……』
涙目になる神様。
しかし、ネコマタの言うとおり彼女らのやり取りは、健二にまったく届いていなかった。彼はいつもの無表情で、お守りモドキを見つめるだけ。
夕津姫は口を尖らせながら、じっと健二の顔を見つめていた。
『はぁ。ワシはこの12年、ずっとお前の助けになることだけを存在意義にしてきたのじゃ。いつかこの想い、そなたに届くのかのう。なあ、ケンジよ』
呟く夕津姫。
彼女は、人々から見捨てられたこの神社を世話してくれる健二のことをずっと見守っている。
むしろ溺愛していると言ってもよい。
12年前、周辺の町を襲った大火から逃れた健二とその実母を、夕津姫は神の力で保護した。
「どうせこのまま朽ち果てるなら」と、当時の夕津姫は気まぐれで健二たちを助けたのだ。
ところが、健二はそれから律儀に夕陽ノ万津神社を訪れるようになった。夕津姫の姿は見えなくても、神社の神様が守ってくれたと恩義を感じたようだ。
以来、健二は甲斐甲斐しく神社を世話してくれるようになった。
こんな場所に建つ神社など、本来は誰にも見向きされない。手入れもされず、祈りも捧げられない神社とその神は、ただ朽ち果て消え去るのみ。
それを健二が救ったのだ。
夕津姫の感動はどれほど大きかったか。
そして今から5年前。
季節外れの雹が降る中、健二は夕津姫の前で誓いを立てた。
「誰の迷惑にもならないよう、人知れず恩返しを続けていきます」――と。
すでに健二にぞっこんだった夕津姫にとって、彼の誓いは絶対に後押しすべきものだ。
数年にわたる健二の献身のおかげで、夕津姫は神の力をかなり取り戻していた。その蓄えた力のほとんどを使い、健二にある加護を与えた。
それが――健二が特異体質と呼ぶステルス能力。
恩返しのために彼が望んだ力だった。