75話 もっと幸せになりたい
「さて、今日のことは輝夜から聞いたわ。例のマネージャーの件が片付いて、ようやく落ち着けると思ったのに、大変だったわね、健二君」
澄玲が表情を改める。
「黒薔薇エリスさん。高嶺家にも、彼女の話は時々聞こえてくる。幼くして、黒薔薇家次期当主として英才教育を受け、将来を嘱望されている子だと。実際、彼女が実務に携わる現場を見たことがあるわ。あの年齢で、大したものよ」
「ですがお母様。いくら教育が行き届いているといっても、まだ小学生の子に家の名前を背負わせるなんて、少しやりすぎではありませんか」
「そうね。私もそう思うわ」
重々しく頷く澄玲。その目には憐憫の色があった。
「澄玲さん。黒薔薇家とは、いったいどういう家なんです? あのような小さな子を当主にしようだなんて」
千影が尋ねた。
澄玲はちらりと健二を見てから、静かに答えた。
「黒薔薇家は、いわゆる神道系の家柄で、昔から不思議な才能を持って生まれる人たちが多いと聞いたわ。特に、直系の人間はね」
「不思議な才能?」
「直感が優れているとか、強運に恵まれているとかね。とにかく、独特の家風を持っているの。代々の守護霊を大事に祭っているという話もあるわね」
「では、黒薔薇エリスさんもそういう特徴を持っている子だから、黒薔薇家で重宝されているということですか?」
「おそらくね。さすがに、彼女にどんな才能や力があるのかはわからないけれど。あちらの力の入れようを見る限り、相当期待されているのは間違いないわ。高嶺家にとって、次世代の大きな存在になるでしょう」
輝夜が表情を引き締めた。固い口調で、母に問いかける。
「それならば、やっくんが黒薔薇家を追い出されたのは、彼にそういった才能がないということですか」
「……断言はできないわよ」
「おかしいです。やっくんに才能がないなんて、絶対に違う。おかしいです」
静かに怒りを露わにする輝夜に対し、健二は冷静だった。落ち着いている、というより、過去を思い出して胸の底が冷えてきたといった方が正しかった。
「自分が実家を出たとき、父に言われました。『お前には才能が現れない』と」
「そんなことないよ、やっくん。ほら、やっくんってなかなか姿が見えなかったじゃない。あれだって、一種の才能だよ。たぶん!」
「輝夜ちゃん、『たぶん』なんて曖昧なことを言っては駄目よ。クロバラくんは間違いなく才能がある。人を勇気づける才能がね」
千影がたしなめる。健二は「ありがとう、たかちゃん、千影さん」と言った。
わずかにうつむいた健二に目敏く気づき、澄玲は言った。
「あまり自分を否定するものではないわよ、健二君。昔は不幸な行き違いがあったけれど、今、こうして私とあなたが向かい合って話せているのは、間違いなく健二君自身の功績なんだから」
「……はい」
よろしい、と澄玲は口元を緩めた。
「それにしても、あなたたちの話を聞く限り、黒薔薇エリスさんは健二君の前では、年相応の妹のような姿を見せるみたいね。『天翔祭、楽しみにしてる』というのも、もしかしたら言葉どおりの意味なのかもしれない」
「本当ですか、お母様。あんなに意味ありげな表情だったのに」
「私が社交界で見たときは、そんな隙すら見せなかったもの。エリスさんなりに、何とか心を開こうとしているのでしょうね」
釈然としない輝夜と千影の隣で、健二は目を大きく見開いた。
(エリスが、心を開こうとしている? ならば、俺は……)
「ねえ健二君。私から提案があるの。明日からの天翔祭、妹さんと一緒に過ごしてみてはどうかしら」
「エリスと、天翔祭を?」
「そう。あの子の心の叫びを受け止め、真意を探るためにもね」
「ちょ、ちょっと待ってくださいお母様! 天翔祭は、私たちと一緒に回る予定で……!」
輝夜が難色を示した。千影も渋面を浮かべている。
すると澄玲は悪戯っぽく笑った。
「高嶺家の自慢の娘と、新進気鋭の若手女優。格の違いを見せつける絶好の機会だと思わない?」
「う……そう言われると」
「ライバルがいるからこそ燃える理論ですか……」
輝夜と千影が静かに呻く。
愛娘とその友人の表情を、澄玲は楽しそうに見つめる。明らかに煽っていた。
そうとは気付かず、健二は真面目に答えた。
「エリスとは、これまでずっと離ればなれでした。あの子が求めるのなら、俺は兄らしいことをしてやりたい。エリスを本家に残したことは、ずっと心残りだったので」
「やっくん……」
「クロバラくん……」
「ふたりともごめん。もちろん、たかちゃんや千影さんとも回るつもりだ」
「え、ホント!?」
「今までは誰にも見つからずに、ただ外から眺めるだけだったからさ。他の生徒たちと同じように、大事な人たちと一緒に回ってみたい」
「大事な人……えへへ」
「もう、クロバラくんてば」
輝夜はもじもじと指先をいじり、千影は普段の大人な顔つきを緩めて頬に手を当てる。満更でもない様子のふたりに、健二は先ほどまで冷えていた胸の奥が再び温かくなるのを感じた。
(こうして姿を見せるようになってからも、たかちゃんや千影さんからはたくさんのものをもらってる。しっかり恩返ししないと)
恩返し――。
本当にそれだけだろうか、と健二は思った。
恩返しがしたいだけなら、『大事な人たちと一緒に回ってみたい』なんて言葉にできただろうか。
黒薔薇家を追い出され、深いトラウマを負い、それによって感情のほとんどをなくしてしまった自分が、「楽しい」「嬉しい」と感じる。
これは、恩返しをしたい気持ちだけじゃない。自分がもっと楽しくありたい、幸せでいたいという欲求が現れてきたせいじゃないか。
鼓動が高鳴る。
感情は、間違いなく戻ってきている。それどころか、昔よりも感情が豊かになっている。
トラウマを克服しつつある。
だからこそ、自分はエリスと向き合わないといけないと健二は思った。
(エリスと楽しく天翔祭を回ることができれば、俺はきっと、昔の俺に戻れる。いや、昔よりも変われる。エリスに、そんな俺の姿を見て欲しい)
「天翔祭。本当に楽しみです」
期待と決意を込めて、健二は言った。




