70話 再び動き出す過去 1
「やっくんの……妹さん?」
「ねえクロバラくん。『ここで生まれた』って、どういうこと?」
輝夜と千影がそれぞれの疑問を口にする。
健二の視線の先には、大きな石がある。上部が平らに削られた、特徴的な形をしている。今はもう枯れてしまったが、かつては手水舎として使われていた場所だ。
「あの石の傍らで、母さんは妹を出産した。今から考えても、奇跡だよ」
輝夜と千影は、口をあんぐりと開けたままだ。無理もないと健二は思った。にわかには信じられない話だ。
しかし、だからこそ健二にとって、この神社は特別になった。
「今から12年前。俺が6歳のときだ。俺は母さんと一緒に、初めてこの夕陽ノ万津神社にやってきた。――正確には、命からがら逃げてきたんだ」
――12年前。
健二がまだ黒薔薇耶倶矢という名前だった頃。
健二は妊娠中の母・紗々詠に連れられ、この街を訪れていた。婿養子だった健二の父、宗厳の実家がこちらにあったからだ。
黒薔薇本家の血筋である紗々詠と違い、宗厳は一般家庭出身。宗厳が黒薔薇の発展に人生を捧げていたためか、健二が父方の実家を訪れる機会はほとんどなかった。
この日、孫の顔を見たいという祖父母の求めに応じた紗々詠が、産婦人科の通院帰りにこっそり寄ったのだ。
「本家へのしがらみに息苦しさを感じていたところは、たかちゃんに似ていたね。たかちゃんを放っておけなかったのも、母さんの姿を見てきたせいだと思う」
ちょっとした顔見せ。母による実家へのささやかな反抗。その程度の話になるはずだった。
しかし、ここで事件が起こる。
父の実家の近くで、大きな火災が発生したのだ。
折悪しく、この日は強い風が吹いていて、火は瞬く間に広がった。父の実家を含め、古い木造家屋が立ち並んでいたエリアは火の海になったのだ。
逃げ道は、次々と塞がれた。
身重の紗々詠が健二の手を取り、必死に火の手から逃れた先にあったのが、夕陽ノ万津神社がある池だった。
神社がある小島まで避難することで、いったんは安全を確保できた母子。
だが、今度は紗々詠が急に産気づいた。炎に追われたことで受けた強いストレスや、無理をして動き続けたことが原因だった。
そして、紗々詠は石の手水舎に寄りかかるようにして赤ん坊を出産した。健二の妹だった。
『……ここの神様が、子どもたちを守ってくれたのね』
やつれた母が、社を見つめながらつぶやいた言葉を、健二は今でも覚えている。
「――それから間もなく、俺たちは救助された。被災を知った黒薔薇本家が、総出で動いたんだ。おかげで俺たち全員助かった。妹も含めて。この状況で妹まで助かったのは奇跡としか言いようがなかったって、後でお医者さんに聞いたよ」
「それじゃあ、やっくんがここの掃除を日課にしているのは」
「うん。妹が助かったのはここの神様のおかげだと思ったんだ。あの出来事のあとから、俺は時間を見つけては夕陽ノ万津神社へ出かけるようになった。この神社に、俺は大きな恩があるんだ」
「そうだったのね。クロバラくんのお母様もそのときはご無事で、本当に良かった」
「……いや。母さんは翌年に亡くなったよ。やっぱり身体への負担は大きかったみたいだ」
輝夜が息を呑み、千影が「ごめんなさい」と沈鬱な表情で謝った。健二は「気にしないで」と言わんばかりに、そっと首を横に振った。
「母さんが亡くなったことで、俺は黒薔薇の後継者として厳しい教育を課されることになった。父さんも、母方の祖父母も、まるで人が変わったように厳しくなった。どれだけ頑張っても、決して認められることはなかったよ」
手水舎の石肌を撫でる。
「俺は皆の期待に応えようとした。そうやってもがけばもがくほど萎縮して、かえって何もできなくなる――そんな負のスパイラルに陥ったんだ」
健二の自己肯定感の低さは、このときに醸成された。
さらに年月が経ち、妹が大きくなると、今度は妹の方が優遇されるようになっていく。
いくら努力しても褒められず、自分に自信が持てなくなっていた健二は、やがてこう考えるようになる。
「できない自分より、できる妹にすべて捧げよう」と。
父親や祖父に叱られながらも、自分の時間をすべて妹のために使った。妹の望むもの、妹のためになると思ったことは、どれだけ大変でも叶えようと全力を尽くした。
周囲から存在を認められず、次第に自分の意志すら尊重できなくなった健二は、認められる喜びを完全に失ってしまった。そうした生活が続くうちに、健二の心はさらに摩耗し、やがて空っぽになっていった。
そして、雹の降るあの日。
健二は黒薔薇家から捨てられたのだ。
肌に降り注ぐ雹の痛みが、健二の心に残っていたわずかな喜びの感情すらも打ち砕いてしまった。
「それからのことは、たかちゃんの知っているとおりだよ」
「やっくん……」
「クロバラくん……」
「ふたりとも、そんな顔しないでくれ」
振り返った健二は目を細めた。相変わらず表情の変化に乏しいけれど、口元は柔らかく緩んでいる。
「たかちゃんや千影さん、それに恩返しに関わってくれたたくさんの人のおかげで、今の俺があるんだ。数ヶ月前の俺なら、今みたいに喋ったり笑ったりできなかった」
「なーぉ」
足元に来たネコマタが鳴いた。彼女を抱き上げ、優しく撫でる姿を見て、輝夜たちは肩の力を抜いた。
「それじゃあ、今まで頑張った分、やっくんにはもっと幸せになってもらわないとね!」
「さしあたり、クロバラくんの願いは神社の再建かしら? 私もクロバラくんの笑顔がもっと見たいから、願いを叶えるために全力を尽くすわ。まずは、剣崎さんがいなくなって空席になったマネージャーのお仕事を斡旋するわね」
「ちょっと待ってください千影さん。どさくさに紛れて、やっくんになにをアピールしてるんですか」
「マネージャーってやりがいがあると思うのよ。クロバラくんには特にね。お金も稼げて、やりがいもできて、一石二鳥。ついでに芸能界デビューまで果たせば名実ともに私の隣に相応しく――」
「あーっ! やっぱりそういう魂胆じゃないですか! だったら私は、高嶺家として正式にサポートを依頼します。なんたってこちらは、政財界に太いパイプを持つお母様の後ろ盾がありますから。やっくんの持ち味を存分に生かせます!」
「輝夜ちゃん。それこそずるくない?」
「ずるくないです。ゆくゆくは高嶺家の一員になってもらうんですから」
「私だって生涯マネージャーになってもらうこと、まだ諦めてないわよ」
いつの間にか、健二そっちのけで言い合いを始めた輝夜と千影。
「ふたりとも。前にも言ったけど、神社の件は俺ひとりで――」
「そういうわけにはいかないよ、やっくん。また昔の、全部を犠牲にしてた頃に戻るつもり?」
「あんな話を聞いた後で、『ひとりでどうぞ』なんて言えるわけないわ。クロバラくんには、誰かと一緒にいる喜びを感じてもらわないと」
健二が断っても、輝夜たちは引き下がらない。
ネコマタが腕の中から飛び降りた。輝夜たちの足元にちょこんと座り、健二を見上げて二度、三度と鳴く。彼女らに賛同しているようだ。
もしかしたら、神様もそれを望んでいるとネコマタは言いたかったのかもしれない。
「……そうだね。大事なこの神社を、一刻も早く立て直したい。ひとりで抱え込むのは、やっぱり良くない――」
そのとき、着信音が響く。
輝夜が慌ててスマホを取り出した。
「もしもし、安藤さん? 今大事な話を――え?」
輝夜が表情を曇らせ、スマホをスピーカーモードにする。運転手の安藤の焦った声が聞こえてきた。
『健二様、皆様。お気を付けください。先ほど、そちらへ見知らぬ一団が渡っていきました。雰囲気が只者ではありません。本家から応援を呼んでいますので、どうか身の安全の確保を!』
ばしゃん、と複数の水音が響いた。




