7話 「ありがとう」の力
「にゃー」
「猫? どうしてこんなところに」
輝夜が立ち上がって窓に向かう。
窓の縁に器用に立っていたのは、三毛猫――ネコマタだった。
生徒会室は3階にある。
外には他の教室にも繋がるベランダがあり、垂れ幕の設置や緑化のために使われている。そこから入ってきたのかなと輝夜は思ったようだった。
輝夜は窓越しにネコマタへ話しかける。
「ごめんなさいね。部屋の中には入れてあげられないの。大事な書類がたくさんあるから」
「にゃー」
「ふふ。人に慣れた子ね。かわいい」
輝夜は微笑んだ。
ネコマタはちらりと彼女から視線を外す。
視線の先には健二。
健二はネコマタに向けて、人差し指を口元に当てた。そして今度こそ生徒会室を出る。
廊下に背を預けていると、生徒会室の中から輝夜の戸惑った声が聞こえてきた。
「あれ、いつの間に……」と呟いた直後、彼女は弾かれたように廊下に飛び出してきた。辺りを見渡し、それから大きく肩を落とす。
その様子を、健二は目を細めて見つめていた。
やがて輝夜は諦めたのか、そのまま自分の教室に戻っていく。健二はそっと後を追った。
輝夜の表情は晴れない。才色兼備な彼女が堂々と遅刻すれば、目立つのは必至だ。
輝夜がそうした空気を苦手にしていることを、健二はよく知っていた。
おそらく、輝夜に書類整理を頼んだ人間も。
「申し訳ありません。遅れました」
「おう、ご苦労だったな。高嶺」
「え?」
担当教師からかけられた言葉に、輝夜は目を丸くしていた。
すでに授業は始まっていたが、教師は板書の手を止めて言った。
「生徒会の仕事があったのだろう? 学園長から聞いているぞ。天翔祭が近いと大変だな」
「あの、えっと」
「まあ、お前の成績と授業態度なら問題ないだろう。さあ、早く席に着きなさい」
ぽかんとする輝夜。
クラスメイトたちは「何だ、やっぱりそうか」と納得した様子だった。
杵築は空気を変えようと気を利かせたのか、勢いよく手を挙げた。
「せんせー。あたしも準備たいへーん。だから自習にしてください、自習」
「やかましい。そういうのは中間試験を乗り切ってから言え。今度こそ、補習でお前の顔を見なくて済むんだろうな?」
「聞こえませーん」
教室に笑いが溢れる。その間に、輝夜は何事もなく授業に復帰することができた。
実は輝夜を探す前、健二は楓華に頼んでいたのだ。
「輝夜は生徒会の用事で少し遅れると、担当教師に伝えておいてほしい」と。
楓華の柔軟で迅速な対応に、健二は心から感謝した。またあの人に恩ができたなと思う。
教科書を開いた輝夜は真面目に授業に取り組んでいる。しっかり気持ちを切り替えているのはさすがだった。
踵を返そうとしたとき、健二はふと、輝夜の仕草に気付いた。
――ありがとう、やっくん。
そう、彼女が呟いたのが口の動きでわかったのだ。
その瞬間、健二は胸の奥がじんわりと温かくなる。
自分の胸に手を当て、目を閉じ、その感情を噛みしめる健二。
普段はメッセージのやり取りや、遠くから見守るだけだった健二。こうして直接「ありがとう」と言われると、自分の心に積み上がっている温かな感情を実感する。
(俺の感情は、少しずつ戻ってきているんだ。皆のおかげで)
恩返しは、確実に良い影響をもたらしている。
そんな手応えを覚えながら、健二は踵を返した。
プレハブ小屋の用務員室へ戻る途中、スマホが震えた。輝夜からのメッセージだった。
:天翔祭 本当に楽しみ!
:それと
:さっきはありがとう やっくん
「……ん」
スマホを見つめながら頷く健二。画面に反射した彼の顔は、ほんの少しだけ微笑んでいた。
健二にとっては、本心からの「こちらこそ」だ。
授業中だろうからスタンプ返信だけにしようと指を伸ばす。すると、直後に輝夜が怒濤のメッセージを送ってきた。
:ところでやっくん
:やっくんはずばり私と同級生だね?
:隠してもバレバレだよ!
「……ん?」
:今度遊びに行こう
:お世話係の人にはうまく言っておくから
:だいじょうぶ 5年前みたいにはならないから
:ぜったい大丈夫だから!
「……んん?(輝夜さん?)」
:もう5年も顔見てないし
:私さびしい
:どこのクラス
:か教えてくれたら
:会いに
:行く殻
:から!
興奮しているのか、メッセージの打ち間違いが目立つ。これではまるで怪文書だ。
健二はこれまでも何度か、輝夜からこのような重めのアプローチを受けてきた。
落ち着いていつものように返信する。
:ごめんな
:前にも言ったとおり、俺は君に恩返しがしたいだけなんだ
:たかちゃんが嫌だとか、そういうんじゃないから
:そこは誤解しないで欲しい
それから少し考え、付け加える。
:あと授業に集中しなさい
数秒、間があってからシュポっとメッセージ。
しょぼんな顔文字ひとつが返ってきた。
それきり、輝夜からのメッセージは途絶える。
気持ちを切り替えたのだろう。
「……ふむ、やれやれ(完璧な優等生を演じるのも大変なんだろうな。でも、だからといって怪文書を送るのはやめてほしいけど)」
健二は呟き、スマホをしまった。
輝夜が何かと理想の優等生を演じがちなのは知っていた。彼女が前の学校にいたときから、たびたびその様子を見てきたからだ。
高嶺の名を背負っている以上、それは致し方ないのかもしれない。
だからこそ、中途半端な姿は見せられないと健二は考える。
輝夜の願いを叶える――つまり彼女の前に姿を現すのは、自分がトラウマを克服したときだ。
特異体質を乗り越え、輝夜にとびきりの笑顔を見せられるように頑張ろうと、健二は思うのだった。