68話 学園長の余裕
この日は、翌日に控えた天翔祭のため、午後の時間が丸々準備に当てられていた。
昼食を終えた健二は、輝夜と千影を伴って学園長室へ向かう。準備に関する報告と、もうひとつ、大事な相談をするためだ。
校内に足を踏み入れると、まるで駅のエントランスのように活気があった。
「わあ……。学園祭の準備って、こんな感じなんだね。廊下に人も物もいっぱい。普段と全然違う」
「そういえば、輝夜ちゃんは転校生だったわよね。前の学校とは違うの?」
「はい。自分で言うのも恥ずかしいのですが、いわゆる由緒正しいお嬢様学校というところだったので。学園祭は、もっぱら社交の場でした」
「なるほど。あなたも苦労してるのね」
輝夜たちは書類の束を抱えていた。途中で出会った生徒会長のぽん汰から、「学園長に会うならこれも頼む」と言って渡されたものである。
本番前日とあって会長は忙しそうだったが、準備も含めて祭りの雰囲気を楽しみたいと話していた。数日前に比べて、表情には余裕がある。
そもそも、これほど大きなイベントの準備を前日の午後になって慌てて始めるようでは、生徒会役員は務まらない。
学園長室がある廊下まで来ると、さすがに生徒の数は減った。
イベント関係者なのか、スーツ姿の男性数人とすれ違う。剣崎とは違って、張り詰めた雰囲気を身にまとっていた。
「今年は偉い人も集まるのかしら」
千影がつぶやく。彼女も芸能界を生きている人間だから、相手の社会的な地位には敏感なのだろう。
ましてや、実家が本物の名家である輝夜はなおさら敏感だ。彼女はやや硬い表情で男性たちの背中を見送った。
学園長室に到着する。学園長の楓華は在室だった。
来客用のコーヒーカップを片付けていた彼女は、健二の顔を見るなり少しだけ目を見開いた。
「健二君、雰囲気が変わったわね」
「そうですか? 自分では、少し笑えるようになったくらいかなと思うんですが」
「すっごく変わったわ。流暢に喋れるようになったことも含めてね」
楓華は柔らかく微笑みながら席に着く。健二と輝夜から渡された書類に目を通し、彼女はサインをした。
「その様子だと、ふたりとも、もう健二君のことがはっきりと見えているみたいね」
ふと、楓華が言った。マホガニー調のデスクに肘を突き、手の甲に顎を乗せる。
「教職員の先生たちから話は聞いているわ。健二君、ステルス体質を無事克服できたそうね。おめでとう。ずっと心配していたのよ」
「ご心配をおかけしました。楓華さん」
「部屋に入ってきたとき、驚いたわ。ずいぶん表情が柔らかくなった。失われていた感情、着実に戻ってきているようね。上司としても、教育者としても、そして叔母としても、とても喜ばしいことだわ」
「学園長先生はクロバラくんと親戚なんですね」と千影が言った。楓華は頷く。
そして、悪戯っぽく笑う。
「それにしても、我が学園でとびっきりの有名人をふたりも味方に付けるなんて、さすが健二君ね。叔母さんは用済みかしら」
「いえ、そんなことは」
「ふふ。冗談よ。今日は健二君お手製弁当が食べられなかったから、ちょっと意地悪言ってみただけ」
「なんですと?」
途端に輝夜が食いついた。千影も目を細めて健二を見る。
「やっくん。もしかして学園長に毎日お弁当を届けてるってこと? なんで?」
「なんでって、恩返ししたいからだけど。楓華さんにはお世話になっているし」
「くっ! とてもやっくんらしくて何も言えない……!」
千影が腕を組んだ。
「それより、学園長先生。クロバラくんにお弁当を作ってもらってたってことは、先生はずっとクロバラくんと会ってたってことですよね」
「ええ、そうね」
「……教えてくださってもよかったのに」
「健二君が望まないことを、私はしません」
輝夜と千影が「ずるい」と頬を膨らませる。
楓華は背筋を伸ばした。
「健二君の表情を見て確信した。あなたたちふたりの存在が、健二君を良い方向に導いたのね。ありがとう。これからも、健二君のことお願いね、高嶺輝夜さん、紫月千影さん」
「もちろんです」
「よろしい。さあ、あなたたち。今日のところはここで切り上げて、明日から思い切り楽しみなさい。天翔祭の運営は、他の職員に任せて。健二君も、生徒と同じ立場で参加するのは初めてでしょ?」
ありがとうございます、と応えた健二は表情を引き締めた。楓華が首を傾げる。
「まだ何かあるの?」
「はい。ひとつ、お願いがあります」
楓華だけでなく、輝夜と千影も眉を上げた。彼女たちも初耳だったからだ。
「実は、僕がいつも参拝している小さな神社が崩落してしまったんです。その再建費用を捻出するため、副業を許可していただけませんか」
「神社の再建? その資金を君ひとりで? あなたらしいと言えばらしいけど……」
「お願いします」
深く頭を下げる。
両脇から、輝夜たちが袖を引いた。
「やっくん。それなら私たちにも手伝わせてよ」
「資金援助なら、輝夜ちゃんや私が力になれると思うわ」
「ありがとう、ふたりとも。けど、気持ちだけ受け取っておくよ」
「また強情なんだから……。神社再建なんて安く済むものじゃないってことは素人の私でも想像がつくよ。それでもひとりで頑張るつもり?」
「うん。むしろ、この件は俺が頑張らなきゃいけないと思うんだ。俺にとって原点の場所だから」
「原点、か。まあ仕方ないわよね。考えてみれば、そういうクロバラくんだから、これまでずっと恩返しを続けてこられたんでしょうし」
皆の視線が楓華に向けられる。
顎に手を当ててしばらく考えていた学園長は、やがて小さく息を吐いた。
「いくらできることが多くても、あなたはまだ18歳。皆に姿を見せられるようになった今、やるべきことは他にあると私は考えます。一番の理解者である隣の子たちを放っておくつもり?」
「それは……」
「健二君の気持ちは理解したわ。副業の件は少し考えさせてちょうだい」
話はこれでおしまい、と楓華は健二たちに帰宅するよう促した。




