64話 ステージを終えて
「ただいま」――それは凪砂にとって、これからも現役を続けていくという宣言だった。
ステージを終え、ファンクラブ会長らと握手をしながら、凪砂は言った。
「これからも、あたしはステージに立ち続けます。どんなに小さなステージでも構いません。だって、こんなに素敵なファンの皆さんがいることがわかったから」
「凪砂ちゃん……!」
「皆さんにはこれから恩返しをしていきたいと思ってます。だから、ステージに立つだけじゃなく、様々な形で活動を続けていきたい。だからどうか、これからも応援よろしくお願いします!」
力強く宣言する凪砂に、ファンたちは大きな拍手を送っていた。千影も笑顔で拍手していた。
その様子を少し離れた場所から見守っていた健二は、ふと思った。
(千影さんは、花咲さんのこの姿に励まされたんだろうな)
その後、凪砂はファンのひとりひとりと握手し、彼らを見送った。やがて人がはけ、ステージ前には凪砂と健二たちだけになった。
「凪砂さん。これ、お返しします」
千影が手帳を差し出した。
「これからもページを繋いでいってください」
「わかった。千影、あんたもしっかりね」
ふたりは固く抱きしめ合った。
輝夜が健二の隣に来た。
「恩返しって、こうやって連鎖していくんだね」
「うん。俺もそう思う」
恩を受けて、恩を返すことによって、また新しい繋がりや感謝が生まれる。
恩返しは、互いの絆を強く結ぶ営みなのかもしれないなと健二は思った。
――翌日。
「おはよう、ネコマタ。今日も乗っていくかい?」
「にゃあ」
自宅アパートにカギをかけ、健二は足元のネコマタに声をかけた。車を持たない健二は、主に自転車で移動する。その前カゴは、ネコマタのお気に入りの場所だった。
今朝はいつもより少し早く出かけることにしていた。天翔祭が目前に迫っており、その準備があるためだ。
出発しようとペダルをこぎ始めたそのとき、アパート前の車道に見慣れた高級車が停まった。
「あ! やっくん、もう学校に行こうとしてる!」
「危なかったわね、輝夜ちゃん」
「ふたりとも。どうしたんだ、こんな朝早く」
車から降りてきた輝夜と千影に、目を丸くする。ふたりの少女は制服姿だった。
「やっくんと一緒に登校しようと思って」
「クロバラくん、昨日の打ち上げのあとすぐ帰っちゃったでしょ? だから今日は逃がさないよ」
輝夜と千影が笑みを浮かべて歩み寄ってくる。きょとんとする健二の前で、ネコマタが不満そうに尻尾を大きく振っていた。
結局、ふたりに押されて健二は自転車通勤を諦め、高嶺家の送迎車に乗り込むことになった。
「えい!」
「それ」
自転車を駐輪場に停めるなり、輝夜と千影が左右から腕を組んできた。そのまま、車までエスコートされる。ネコマタは健二のリュックの中に収まった。
「ふたりとも、近いよ」
「駄目だよ、やっくん。これは私たちの恩返しなんだから」
「それにね、クロバラくん。このくらいのスキンシップは今から慣れてもらわないと困るわよ。ふふ……きっと学校に着いたら大騒ぎになるわね。楽しみだわ」
目を輝かせている少女ふたりにこれ以上苦言を言うわけにもいかず、健二はされるがままになった。
「ん?」
ふと、健二は気配を感じて後ろをちらりと振り返る。しかし、古アパートはひっそりとしたままで、人の姿はなかった。
輝夜たちは楽しそうに前を向いたままだ。何かに気付いた様子はない。
『黒薔薇本家でこれまでにない動きが生まれたのは確かよ。健二君、もしかしたらあなたにも火の粉が降りかかってくるかも知れない。気をつけなさい』
ふと、健二は澄玲の言葉を思い出した。
送迎車に乗り込む。案の定、健二は輝夜と千影の間に座ることになった。高嶺家的には大丈夫なのかと思って安藤を見るが、彼は小さく微笑むだけで何も言わない。
「そういえば澄玲さんが婿養子に来てと言っていたな」と健二は思い出した。もしかして、高嶺家では周知の事実になっているのだろうか。
「やっくん。いよいよ明日だね、天翔祭」
「クロバラくんはどこのクラスなの?」
「そういえば、やっくんって制服着てないんだね。もしかして、飛び級で教師をやってるとか?」
「輝夜ちゃん。さすがにそれは飛躍してるわよ。まあ、クロバラくんならあり得るけど」
「ねえねえ。天翔祭って屋台が出るんだよね。やっくんはどんなのが好き?」
「もちろん一緒に回ってくれるわよね? あ、もしかして当日は何か当番になってる? 言ってくれたら手伝うわ。一緒に時間作りましょう。凪砂さんも来てくれるって昨日話してたもの」
車内では、輝夜と千影がひっきりなしに話しかけてきた。話題の中心は、もっぱら翌日の天翔祭についてだった。
あまりに一方的に輝夜たちが喋り続けるので、運転席の安藤が「お嬢様方、佐藤様がお困りですよ」と助け船を出したほどだ。
胸に抱いたリュックからネコマタが顔を出し、「いい加減にしろ」とばかりにゃおうと低く鳴いた。健二は長い付き合いの相棒の頭を撫でてやる。
「ねえ、やっくん」
輝夜がネコマタをじっと見つめながら尋ねた。
「このネコちゃん、うちの学校にずっと住み着いてる子だよね。こんなにやっくんに懐いて、昨日今日飼い始めた感じじゃないみたい」
「うん。ネコマタはずっと俺のそばにいてくれてる」
「やっくんは、普段はどこで何をしてたの? 私のひとつ上だから、たぶん千影さんと同じ3年生だと思ってたけど……」
「実は、俺は天翔学園で用務員として働いているんだ」
「用務員!」
「なるほど。どうりでクロバラくん、ステージ機材とかに詳しいと思った。もしかしてクロバラくんの職場って、敷地内にあるあの大きなプレハブ小屋だったりする? 近くにキンモクセイが植えてある場所」
「うん。そうだよ」
「……本当にすぐそばにいたんじゃない。やっくんのいじわる」
輝夜が口を尖らせる。健二は苦笑した。神がかり的なステルス能力を持っていたことについては、すでにふたりには話してある。
「学園の用務員として働いているってことは、楓華さん――学園長先生も知ってたんだよね。教えてくれてもよかったのに、学園長先生」
「楓華さんは俺の気持ちに配慮してくれたんだ。あまり責めないでほしい」
それにしても、と健二は続けた。
「たかちゃん、楓華さんへの苦手意識がだいぶ薄れたみたいだね。よかった」
「うん。これもやっくんのおかげ。実はね、お母様や家の人たちとの会話が少しずつ増えてきたの。家の実務的な話じゃなくて、たわいない雑談なんだけど」
おかげで、以前のようなわだかまりは薄れてきたと輝夜は話した。バックミラー越しに、運転手の安藤が目元を押さえていた。高嶺家の人たちにとっても、輝夜の歩み寄りは嬉しいことだったのだろう。
「特にお母様とはよく話すようになったわ。共通の話題は、もちろんやっくんだよ。嬉しかったなあ。やっくん、私が紹介するよりも先にお母様と仲良くなってるんだもの」
「……輝夜ちゃん。それ本当?」
「そうですよ、千影さん。親公認というやつです」
胸を張る輝夜。一瞬、唇をへの字に曲げた千影だったが、すぐにいつもの余裕ある大人の笑みに戻った。
「それじゃあ、輝夜ちゃんはもうクロバラくんのサポートは必要なさそうね。これからは心置きなく、私の活動に専念してもらおうかしら」
「ずるいですよ千影さん! それとこれとは話が違います!」
「だってクロバラくんの身体はひとつだし。これからさらに活躍していくなら、優先順位を付けるのは大切なことよ。ね、クロバラくん?」
「やっくんは何でもできるから、優先順位なんて必要ないんです! ね、やっくん!?」
健二を挟んで言い争いを始める輝夜と千影。
(どうしよう。この場合、どう収めればいいのかわからない)
ステルス能力によって5年間も人との関わりを避けてきたせいで、健二は自分が話題の中心になるとどう対応したらよいかわからず、ただただ戸惑っていた。
だが、この騒ぎはまだ序の口であることなど、このときの健二は知る由もない。




