63話 愛してる!
ステージが近づいてきた。
先頭を歩いていた凪砂が、不意に歩調を緩めた。
「嘘。もしかして、この人たち……全部?」
口元を押さえてつぶやく。
黄色い帽子をかぶった大勢のファンたちが、野外ステージの前に集まっていた。これほど多くの観客が集まったのは、凪砂にとって初めてだった。
デビュー前、初めてここでライブしたときの光景が脳裏をよぎったのか、凪砂の目尻に涙が浮かんだ。
隣に立った千影が、凪砂の肩を抱く。
「嘘でも夢でもない。これはちゃんと現実ですよ。凪砂さん」
すると、観客の中からひとりの壮年男性が凪砂の元へやってきた。
凪砂ファンクラブの会長だった。
「やあ、凪砂ちゃん! 今日は最高のライブ、期待しているよ!」
「会長さん……」
声を震わせる凪砂を見て、会長は目を細めた。
「紫月千影ちゃんから熱心に説得されてね。凪砂ちゃんの思いを聞いて、居ても立ってもいられなかったよ」
「あたしの、ために」
「そんなしょぼくれた顔しないでくれよ。凪砂ちゃんは皆に元気を与える天才だろ? 顔を上げてくれよ」
会長は手を叩いて凪砂を励ました。本当は肩を叩いてあげたい気持ちもあったが、いちファンの立場としてそれは控えているようだった。
会長の後ろでは、凪砂に気付いた老若男女のファンたちが笑顔で手を振っている。中には、凪砂がデビュー前にここで手売りしていたCDを掲げているファンもいた。
「ここに来ているのは、凪砂さんの姿がずっと心に残っている人たちなんです」
千影が、凪砂の顔をじっと見つめながら言った。
「たとえそれぞれの事情でライブ会場に足を運ばなくなったとしても、凪砂さんの姿が、声が、そのエネルギーが、ずっと皆さんの心に残っていた。ただ、凪砂さんの目には映らなくなっていただけ。だから、私にできることは凪砂さんの真摯な思いをもう一度皆さんに伝えることだと思ったんです」
「千影……!」
「怖がることなんてなかったんですよ、凪砂さん。だって、これだけの人たちが、凪砂さんの思いに応えてくれたんですから」
自然と拍手が起こった。
嗚咽のような、安堵のような、そんな吐息を吐いた凪砂は、目尻から涙を落としながら「にっ」と笑った。
「ありがとう、千影。会長さん。輝夜ちゃん。ファンの皆さん。あたし、精一杯いいステージにするよ」
それから、ふと辺りを見回した。
「そういえば、千影のマネージャー君はどこにいったの? いつの間にか姿が見えないけど」
「お待たせしました」
背後から健二の声がした。
彼は、運転手の安藤とともに大きな段ボール箱を抱えてやってきた。
「先ほど追加分が届いたので、まとめて運んできました」
「マネージャー君、それはいったい」
健二が段ボール箱を下ろし、中を開く。
そこには、たくさんのガーベラの造花が収められていた。凪砂が目を細める。
「懐かしいな。あたし、これを見て『頑張らなきゃ』って思ったんだよね。赤が挑戦、白が希望、黄色が親しみやすさ……あたしが目指した色の花が全部揃ってる。マネージャー君、これはもしかして、あたしの手帳を見て用意してくれたの?」
「はい、そのとおりです。千影さんから、手帳に何度も登場するこの花は花咲さんにとってとても大切な意味があると聞きましたので」
凪砂は造花の一本を手に取り、胸に抱いた。
健二が輝夜たちに頷きかけ、段ボールの中の造花を手に取った。会長を始め、集まったファンたちに声をかけ、ひとりずつ配っていく。
そこで凪砂が首を傾げる。
「ひとり1本じゃなくて、3本ずつ?」
「はい。赤、白、黄の3色をひと束にして配ることにしました」
「だから、3色とも同じ数だけ用意してあったんだね。こんなにたくさん……どの色をもらっても、私は嬉しいよ」
穏やかに笑う凪砂に、3色のガーベラを手にした千影が寄り添った。衣装に1本ずつ縫い付けていく。
その作業を見守りながら、健二は言った。
「花咲さん。ガーベラには別の花言葉があるのはご存じですか?」
「え?」
「この花は束ねた本数によっても意味があるんです。3本のガーベラの花言葉は――『あなたを愛しています』」
凪砂が目を大きく見開き、後ろを振り返った。集まった老若男女のファンたちが、3本のガーベラを掲げて応える。
健二もまた3色のガーベラを手に、凪砂の背中を押した。
「ガーベラの花が、あなたが愛されている証です。今日は、ファンの皆の愛を全身で感じてパフォーマンスしてください」
「マネージャー君……」
「本物のアイドルの姿、楽しみにしてます!」
「輝夜ちゃん……」
「凪砂さん。私は、一番前で見ていますから」
「千影……。うん、わかった。ありがとう。見てて、千影。あんたの先輩として、恥ずかしくないステージにするから。皆の思いを無駄にするわけにはいかないもんね」
凪砂は自分の胸をドンと叩いて、ステージへと向かった。
――花咲凪砂のステージが始まった。
健二は敢えて、CDの再生機器以外の音響機材は揃えなかった。凪砂の歌唱力とパフォーマンスの力を信じたからだ。何より、千影の強い勧めがあった。
『凪砂さんの全力を受け止めるなら、機材に頼らない方がいい』と。
3色のガーベラがペンライトのように会場で揺らめく中、曲がスタートする。
そしてすぐに、健二は千影の言葉が正しかったと実感したのだ。
『ねえ、私の声は届いてる?
砂のように崩れていく
居場所を探してた夜』
凪砂が歌い始めた。それは静かな歌声でありながら、最後列のファンの耳にもスッと入ってくる張りがあった。
彼女が地道に積み上げた技術の結果だ。
『あなたが教えてくれたの
逃げない勇気、愛しい気持ち
私の色が示すのは
愛してるという奇跡』
ステージ上でのダイナミックな踊り。
初めてその曲を耳にした健二の心にも、凪砂の歌声は強く響いた。歌でここまで感情を揺さぶられたのは、千影や輝夜のとき以来だった。
会場のボルテージが上がっていく。
熱気が伝わってくる。
機材に頼らなくても、今、間違いなく凪砂とファンは一体になっていた。
最前列でガーベラの花束を掲げた千影が、腹の底から声を振り絞って叫ぶ。
「凪砂ーっ! 愛してるーっ!」
ファン全ての気持ちを代弁した、魂の声援だった。
その声に応えるように、凪砂は曲のサビを高らかに歌った。
『もう振り返らない
どんな小さなステージでも
私は私を歌い続ける』
凪砂は泣いていた。千影も泣いていた。会長は大泣きしていた。ファンたちも涙ぐんでいた。
彼らに触発されて、健二の胸にもこみ上げるものがあった。感情が欠けていた彼にとって、それはとても大きな意味を持つ変化だった。「報われた」と思うほどに。
――ステージは熱狂のうちに終了した。
「みんな、ありがとう! そして――ただいま!」
額から珠の汗を光らせながら、満面の笑みでファンに言葉を投げかける凪砂。
こうして、「これまでの努力が無駄になるかもしれない」という凪砂の不安は、完全に消え去ったのである。




