6話 距離1メートル
健二は首を傾げる。
いつもなら、もっとはしゃいだ文面が返ってくると思っていたからだ。
健二は去年、輝夜からこんなメッセージを受けたことがある。
『つらい。舞踏会の空気はいつも苦手』
『来賓に黒薔薇家のご当主様がいらっしゃっている。やっくん、私頑張る』
それは輝夜が前の学校に在籍していたときのもの。由緒正しい女学校での『学祭』は、ほぼ上流階級の社交場であった。
『高嶺輝夜』という優秀なシンボルを、方々にお披露目する場であったのだ。
輝夜はそれを嫌がり、いつも息苦しさを感じていた。
けれど、今年は違う。
天翔祭は、輝夜が初めて経験する『学祭らしい学祭』だ。
誰よりも天翔祭を楽しみにしていたはず。
なのに、この不自然なメッセージは何だろう。
「……ん(これは、何かあったな)」
健二は席を立ち上がる。
「にゃー?」と可愛らしく鳴きながら近づいてきたネコマタに、健二はスマホの筆談で『お留守番しているように』と伝えた。
それから彼はプレハブ小屋の用務員室を出る。
校舎に入り、輝夜のクラスへと向かう。健二のことを振り返ったり、不思議そうに見る生徒は誰もいなかった。
クラスの前にさしかかる。
「ねえ。輝夜知らない?」
「え? どしたの?」
ふと、女子生徒ふたりの声が耳に入った。そのうちのひとりは輝夜と仲の良いクラスメイト、杵築だ。
杵築は同じクラスの女子生徒に、輝夜の居場所を聞いている。彼女の手にはノートが握られていた。
「借りてたコレ、返そうと思ってたんだけどさ。どこいっちゃったんだろ、あの子。次の授業に使うのに」
杵築たちは肩をすくめながら窓際の机を見る。そこは輝夜の席だ。
机の上には不用心に置かれたままになっている輝夜のスマホ。
健二は杵築たちの邪魔にならないよう、クラスの中に入った。いつもは自重していることだが、今回は妙な胸騒ぎがしたのだ。
輝夜のスマホが、ちょうどスリープモードになる。画面が暗転する間際に映っていたのは、メッセージアプリだ。
そこには、健二のスマホに届いたものと同じ内容のメッセージと、途中まで入力された別のメッセージが見えた。
すると、前の席で談笑していた男子生徒が言った。
「高嶺さんなら、誰かに呼ばれてたぜ。あれ、確か生徒会だろ。知らねーけど」
「何で知らねーのよ。ちゃんとドコ行くか聞いときなさいよアンタ」
「は? 無理無理。杵築ならともかく、高嶺さんにおいそれと声かけられねえって」
「はー、つっかえない男ね」
罵倒する杵築の横で、健二は顎に手を当てて考えた。
今朝、学園長室での輝夜と楓華とのやり取りを思い出す。
輝夜は、生徒会役員の一人である九鬼怜奈に嫌われているらしい。
(いや、まさかな……)
健二は首を振る。
一方で彼は思う。
輝夜は昔から、他人に恨まれることが多かった。天から二物も三物も与えられた彼女のことを、持たざる者たちは強く妬んだ。
実際、前の学校で様々な嫌がらせを受ける輝夜を健二は目撃し、そのたびにフォローしてきた。
(もし俺の推測が当たっていたら)
怜奈が無理矢理輝夜を呼び出し、何か嫌がらせをしているのかもしれない。
(たかちゃんは、前の学校の空気が合わずに転校してきた。それなのに、天翔学園でも理不尽な目に遭うのを黙って見ていられない)
むしろ――許容できない。
健二は踵を返す。
それとほぼ同時だった。杵築がブルッと肩を震わせる。
「いま、何だか怖い気配を感じたような」
「え、ちょっと。やめてよ。後ろ、誰もいないじゃない」
「気のせい……? いやでも、確かに悪寒が」
そんな会話を尻目に、健二は教室を出る。
健二はかつてのトラウマから、『喜び』の感情が特に欠落している。
しかし厄介なことに、『怒り』の感情は残っているのだ。
強いネガティブな感情は、健二の心をかき乱す。その結果、精神的に不安定になると、時折、彼の特異体質であるステルス能力にも悪影響が出ることがあった。
実際、過去にそれが原因で大きな失敗をしたこともある。
恩返しを遂行するためには気持ちを落ち着かせなければならない。
静かな怒りを腹の底に抑え込みながら、健二は廊下を歩く。
やがて予鈴が鳴った。
健二はまず、楓華のいる学園長室へ向かった。頼み事をするのに、メールだけでは失礼だと考えたからだ。
それから足早に校内へ。
輝夜を探して、めぼしい場所を見て回った。
(……居た。たかちゃん)
彼女を見つけたのは生徒会室だった。
入口扉の窓から中をうかがうと、輝夜は作業机に座って書類のチェックをしていた。
健二は眉をひそめる。今朝方、彼が整えたはずの書類がバラバラにされていたのだ。
輝夜が自分で散らかしたとは考えられない。彼女はそこまでがさつでも無神経でもないのだ。
だとしたら、誰かがわざと書類を散らかし、その後処理を輝夜に押しつけたことになる。
彼女はたった一人で黙々と作業している。本来なら誰かに助けを求めてもいいはずだが、あえて一人でいることを選んだ。
表向きには弱みを見せない。それが高嶺家の令嬢としてのプレッシャーなのだろう。
健二は、プレッシャーに苦しむ姿を何度も見てきた。
おそらく、輝夜に書類整理を押しつけた人物も、彼女が苦しんでいることを見抜いていたのだろう。だからこそ、このような仕打ちが効果的だと考えたのかもしれない。
怒りを抑えろ、と自身に言い聞かせる健二。
幼い頃からの躾の賜物か、書類整理をする彼女の背筋はピンと伸びている。だが不意に、輝夜は机に突っ伏した。
扉越しにも聞こえてくる大きなため息。
健二は、目を細めた。
彼は思い出していた。かつて、黒薔薇家にいたときの自分もあんな風に意気消沈していた。
頑張っても、頑張っても、認めて貰えない。無下にされる。この程度かと罵倒される。
挙げ句の果てに――捨てられる。
達成感を味わうこともなく追放されたことで、健二の心には喜びの感情が大きく欠けてしまった。
輝夜には、間違ってもそんな思いはして欲しくない。
健二はゆっくりと生徒会室の扉を開けた。どんなに建て付けがよくても、音は出る。
しかし、輝夜は顔を上げなかった。健二が入ってきたことに気付いていないようだ。これは、健二が怒りをうまくコントロールできている証拠だった。
健二はゆっくりと輝夜に近づく。生徒会室は静かで、教師の声は遠い。
机を挟んで、互いの距離はわずか1メートルほど。手を伸ばせば、すぐに届く。
健二は、突っ伏した輝夜の頭に手を伸ばしかけて、思いとどまった。そして、その手を自分の顔に当てた。自分の表情が相変わらず無表情であることを確認する。
(こんな顔を見せたら、たかちゃんに心配させてしまう。幻滅されるのは、嫌だ)
輝夜の笑顔は、感情を取り戻すための大事なエネルギー。
しかし、もし彼女から失望の眼差しを向けられたら、健二は今度こそ立ち直れないだろう。
これまでのすべての恩返しが、無意味に思えてしまうからだ。
(俺は、黒子だ。見つかっちゃいけない。見つかるべきじゃない)
「……ごめん。たかちゃん」
健二は呟いた。
輝夜がぴくりと動く。
「やっくん、ごめんね」
机に突っ伏したまま、輝夜も呟いた。
「私、やっくんに助けられてばっかりだ。私だって助けたいのに。ずっとそう思ってるのに」
健二の声が聞こえたわけではない。輝夜はただ、今の情けない自分を健二に見せられないと思っているだけだ。
健二は瞑目した。それから、机に散らばった書類に手を伸ばす。簡単に整理をして、輝夜の傍らに置いた。
そして、踵を返す。
そのとき、窓がコツコツと叩かれる音がした。
健二は振り返る。
同時に輝夜も頭を上げた。