59話 ひとつの決着、ひとつの始まり
よろめいた剣崎が、商談相手の小太り男性ともつれるように倒れる。
「な、なにすんだ!」
痛みで呂律が回らない剣崎を、健二は静かに見下ろす。その迫力に剣崎も商談相手も押し黙った。
そのとき、落ち着いた和装姿の美人が前に進み出た。クロノス・エージェンシーの社長と同席していた人物のひとりだ。
「随分と好き勝手やってくれましたね」
静かな口調がずんと腹の奥に響いてくる。言葉の重さが違うのだ。怜奈は、「怒らせては駄目な人だ」と直感した。
その直感の正しさを証明するように、小太り男性が女性を見て真っ青になる。
「スミレ・タカミネ……」
(タカミネ? まさか、この人)
和装美人の顔を見る。
確かに、面影がある。怜奈が一方的に憎んでひどい仕打ちをした少女、高嶺輝夜に。
「あなたたちの『ビジネス』は、高嶺家の投資資金に手を付けたことと同じです。たとえるなら、高嶺家の庭に土足で入り込み、泥だらけにしたようなもの。到底許せない行為です。これ以上高嶺家を侮辱すれば、どんな結果になるか身をもって知ることになるでしょう。二度とこの業界で働けると思わないでください」
どうやら、剣崎たちにとってこの女性は『敵に回してはいけなかった存在』だったようだ。
ふたりの男はがっくりとうなだれた。完全に戦意を喪失したのだ。
あまりの急展開に呆然としている怜奈の前で、和装美人は健二に声をかけた。
「握り拳でもよかったのに。見なかったことにしてあげるわよ、健二君」
「ありがとうございます。澄玲さんが協力してくれたおかげで、無事に話がまとまりました」
「いいのよ、このくらい。高嶺の家に累が及ぶのを防ぐことができたのは、あなたの功績よ」
親しげに肩を叩く和装美人。
少しはにかんだような笑みを見せる健二を、怜奈はじっと見つめた。
「佐藤、健二……君」
気がつけば口が開いていた。
「もしかして、私、あなたに会ったことがある? 生徒会室で――」
「……やはり、気付いていたんだね」
「じゃあ!? あの気配は、やっぱりあなた!?」
健二は頷いた。
怜奈は身を乗り出すが、そこで固まってしまう。
(いまさら、私が何を言えるのだろう)
湧き上がってくる後悔で、怜奈の思考はかき乱される。もし今、優しい言葉をかけられたら、もう二度と自分を許せなくなるかもしれない。
怜奈はすがるような視線を健二に向けた。
すると、健二の目がスッと細くなった。
ゆっくりと怜奈のもとに歩み寄ると、彼はその手を取った。怜奈はどきりとした。
「あのときのことを、後悔しているんだな」
「……っ!」
「なら、俺ができるのはこれくらいだ。――歯を食いしばれ」
健二の言葉に、怜奈は息を呑んだ。心臓がさらに高鳴る。言われたとおりに奥歯を噛みしめた。
直後、健二が怜奈の手の甲に平手打ちをした。鋭く染みる痛みが怜奈の全身を駆け巡る。思わず目尻から涙が出た。
健二は優しい言葉をかけなかった。
代わりに、怜奈が心のどこかで望んでいた罰を与えたのだ。
「これはたかちゃんの分。この痛みを覚えておくんだ」
健二の囁くような声がすぐ近くから聞こえる。
「俺が君を叩くのはこれで最後。もう自分も他人も傷つけるような真似はやめるんだ」
自分も、他人も。
怜奈の頭の中で、その言葉がこだました。健二は、輝夜だけでなく『怜奈自身』も傷つけるな、大切にしろと言っているのだ。
嬉しかった。
初めてちゃんと気遣ってもらえた気がした。
「ごめんなさい」
気がつけば、健二の手を握りしめて呟いていた。手の甲はまだじんじんと痛む。その痛みを逃がさないように手で包み込みながら、怜奈は何度も言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。……ありがとう。ありが、とうっ……!」
「謝るならたかちゃん――高嶺輝夜さんに、自分の口で伝えるんだよ」
「うん」
「君なら、まだやり直せる」
そんな言葉をかけられたら、もう駄目だった。怜奈は喉の奥から絞り出すような声で泣いた。
涙をぼろぼろと流していると、不思議と胸の中に温かさが戻ってきた。錆びついて動かなくなっていた心の扉に、丁寧に油を差してやっと動き出したような、そんな安心感と達成感が胸に広がった。
ホッとしたせいか、突然、怜奈のお腹が鳴った。そういえば料理にはろくに手を付けていなかったと思い出す。
赤面しながら顔を上げると、健二はさっきまでと変わらない表情をしていた。
普段は物静かな人なんだろうなと思ったそのとき、健二は口元に小さく笑みを浮かべた。
「安心できたなら、よかった」
スッと離れていく健二。
その横顔から怜奈は目が離せなかった。
佐藤健二という青年にどうしようもなく惹かれている自分を、怜奈は自覚した。
◆◆◆
(とりあえず、俺ができることはやれたかな)
健二は小さく息を吐いた。
剣崎を殴り飛ばしたあと、あらかじめ待機していた高嶺家の使用人によって剣崎と小太り男は連れていかれた。『事情聴取』が終わったら、しかるべき機関に引き渡すという。
一緒にいた九鬼怜奈は、高嶺家の女性使用人によって保護され、自宅まで送られた。
部屋に残ったのは、健二を含めて4人だ。
「このたびは、我が社のマネージャーが大変お見苦しいところをお見せ致しました」
クロノス・エージェンシーの崎嶋社長が深く頭を下げる。相手は、凪砂が所属する事務所の社長、田中だ。
田中社長はしきりに恐縮していた。タレント数も知名度も財政規模も桁違いの大手事務所と対等に話ができるとは、思っていなかったようだ。
ふたりを引き合わせたのは、高嶺家現当主の妻、澄玲の力だった。高嶺家は澄玲主導のもと、クロノス・エージェンシーに大口の投資をしている。
澄玲は、剣崎の不正取引を高嶺家の金に手を付けることと同義と見なしたのだ。
そして、澄玲をこの場に引き出したのが健二である。
「それでは崎嶋さん。事前にお話したとおり、紫月千影さんのイベントは延期、もしくは中止ということでよろしいでしょうか」
「やむを得ません。マネージャーの不祥事で将来有望な女優の前途を閉ざすわけにはいきません。我々は彼女を守る義務があります」
「結構です。田中さんも、それでよろしいですか?」
「え!? は、はい。こちらとしては、クロノス・エージェンシーさんと穏便に話をまとめられるなら、それで十分ですから……」
大物ふたりを前に、若干震える口調で応じる田中社長。
千影が凪砂のイベントを優先したいと希望したことで、両社の関係にわずかな緊張が生まれていた。田中にとっては、相手が穏便に済ませてくれるならありがたい限りだった。
社長たちの返事に、澄玲は満足そうにうなずいた。
「それでは、高嶺家はこれまで通り投資を続けます。今回のイベントによる損失についても、弊家が支援いたします」
「大変助かります。今後とも、末永いお付き合いをどうかよろしくお願い致します」
「ええ。是非。それと田中さん。よろしければ、これを機にあなたのところにも資金援助をしようと思うのですが、いかがです?」
「ね、願ってもないことです!」
「では、交渉成立ですね。今日は良きお話ができました」
にこやかに告げる澄玲の前で、ふたりの社長は握手を交わした。
それから、「これから忙しくなる」と言い残して足早に退室していった。
部屋に残ったのは、健二と澄玲のふたりとなった。
「健二君。せっかく用意した料理がまだたくさん残っているわ。今から一緒に食べながら、お話ししましょう」
澄玲が促す。
「あなたには、伝えたいことがたくさんあるの」




