55話 雹の別れ
――健二から数メートル離れた場所に、夕津姫は立っていた。隣にはネコマタもいる。
傍らには、色とりどりのガーベラの花が雨粒を受けて項垂れていた。
夕津姫からは健二の背中が見えている。輝夜と千影を胸に抱き、何やら楽しそうに談笑しているのがわかった。
『……ついに取り戻したか。楽しいという感情を』
『ケンジしゃん、とうとう姿を見せる決断したんだにゃ。夕津姫様、大丈夫かにゃ?』
『なんじゃ眷属。珍しく素直に心配してくるではないか』
『だって……』
ネコマタは夕津姫を見上げる。
神の姿は、すでに半分が消えかけていた。
しかし、夕津姫は満ち足りた表情で首を横に振った。
『とうに覚悟を決めていたことじゃ。むしろ、こうしてケンジの大切な瞬間を見届けることができて、わしは幸せじゃ。後は頼んだぞ、我が眷属。わしが消えても、お主は現世に残るのじゃから』
『夕津姫様……』
『ケンジに恩返しができてよかった。本当に……良かったのう』
夕津姫の目には、健二が輝いて見えた。雨の中、彼の背中は12年前よりもずっと大きく、逞しく映った。
水の神である夕津姫にとって、雨は愛する人への祝福であり、別れを惜しむ涙の代わりでもあった。
『ケンジ。お前はもうひとりではない。これからは彼女らの力を借りて、感情を育てておくれ。お前と出会ってからの12年間は、本当にあっという間で――幸せだったぞ。ケンジ』
夕津姫の身体が薄い光に包まれる。
ネコマタが目を閉じ、天を仰ぐ。ほとんど消えかけた夕津姫の足に、自分の身体をこすりつけた。
――そのときだった。
健二が、何かに気付いたように振り返った。
『ケンジ……?』
一瞬、足元のネコマタを見つけたのかと思った。しかし、健二の視線は確かに夕津姫へ向けられている。
大きく見開かれた健二の瞳に、吸い込まれそうになった。
その瞬間、夕津姫の脳裏に健二との12年間が走馬灯となって流れた。
大火の日、初めて健二とその母親に出会ったとき。
居場所を2度も奪われたにも関わらず、社の前で恩返しを誓う姿を見た、あのとき。
日を追うごとに、境内掃除をする健二が大きく成長していく様子を目を細めて眺めていた、あのとき。
怪しげな霊感グッズにハマった彼を、怒り半分心配半分で叱るものの声が届かず途方にくれた、あのとき。
輝夜のこと、千影のこと、恩返ししたいと思ったすべての人々のことを語る健二の横顔を見つめた、あのとき。
おみくじで健二の悩みに答えようとした、あのとき。
不器用で、真面目で、真摯で、献身的で、多才で、自己肯定感が低くて、目的のためにひたすら歩み続ける佐藤健二への恩返しが、今、終わろうとしている。
これは、その事実を報せる走馬灯なのだ。
霊感のない健二には、本来なら夕津姫の姿は見えないはずだった。だから、今こうして見つめ合えるのは、きっと最後の奇跡なのだろう――。
「ありがとうございます」
健二は言った。
夕津姫を見つめ、はっきりと言った。
ここ数年――いや、この12年間で一番の微笑みを浮かべて、健二は礼を言った。
それは、輝夜や千影にすらまだ見せたことのない笑顔だった。
夕津姫は泣きそうになるのを堪えた。餞別の雨が降っているのに、水神が涙を拭うなど情けない姿は見せられないと思った。
夕津姫もまた、精一杯の笑顔を浮かべて応えた。
『達者でな、ケンジ』
夕津姫を包む光が強くなる。
驚愕の表情で固まるネコマタに告げる。
『見ろ。あの娘たちよりも先にケンジの笑顔を見たぞ。わしが一番じゃ』
何百年も生きた神様とは思えない、無邪気で嬉しそうな笑み。
それが夕津姫の最期となった。
シャボン玉が不意に弾けるように、夕津姫の身体が光の粒子に変わる。それは降り注ぐ雨に逆らって、空へと昇っていく。
その様子を、尻尾を何度も振りながらネコマタは見上げた。
『……まったく。ウチの主様は最後の最後まで健二しゃんラブだったにゃ。これじゃ、いつものようにツッコめないにゃ』
健二を見ると、彼もまた空を見上げていた。まるで夕津姫が天に昇るのを見送るように。
霊感のなかったはずの健二が、なぜ最後になって夕津姫の姿を見ることができたのだろうか。
『もしかすると健二しゃんは、過去に持っていた感情と一緒に、もともと備わっていた霊感まで失っていたのかもしれないにゃ』
輝夜と千影の愛情を受け入れ、それに応えたことで、健二は失っていた感情を取り戻した。さらに、失われていた霊感も同時に蘇った。
だから、健二への愛情が最も昂ぶった瞬間の夕津姫を見ることができた――。
『まさか、そんな都合のいいことが起こるわけないにゃ。ウチは所詮、ただの眷属。奇跡の真実なんて、神様のみぞ知る、にゃ』
これ以上、理屈を詮索するのは無粋だとネコマタは思った。夕津姫の恩返しが報われた――それで十分だと彼女は思った。
――雨音が、変わる。
雨粒に白く小さな氷の粒が混ざり、辺り一面に降り注ぎ始めた。
雹だ。
まるで天に昇った夕津姫の感情が宿ったかのように、氷の粒は機嫌良さげに地面を跳ねて、やがて寂しそうに転がった。
輝夜と千影が突然の雹に慌てる中、健二はじっと空を見つめ続けていた。
ふと、彼がネコマタを見る。
「おいで」
手を差し伸べられる。
ネコマタは一直線に、健二の腕の中へ飛び込んだ。ひとり分の傘の下で、ぎゅう詰めになる。その狭さと温かさが、ネコマタには心地よかった。
「やっくん。さっきからずっと空を見上げているけど、何かあるの?」
「怪我をするといけないわ。クロバラくん、早く車に避難しましょう」
ふたりの少女が健二を促すが、彼は「もう少しだけ」と応えた。
ネコマタは微睡みの中、健二の声を聞いた。
「……雹が降る日は、いつも人生の転機になってきたんだ。だから今この瞬間も、俺にとって特別な時間なんだよ」




