50話 凪砂の本音
「さっき、『千影の活躍を楽しみにしてる』って言った口で、矛盾してる話かもしれないけどさ。聞いてくれる?」
「……はい」
「あたしはデビューして12年。自分でも長い間、頑張ったと思うよ。ファンの人たち、スタッフの人たちにずっと支えられてきた。けどね……舞台に立つからこそわかるんだ。来てくれるお客さんの数が減っていくのが、この目で」
凪砂は湯気の立つコーヒーをじっと見つめている。
「最近はずっと舞台に立つのが不安だった。不安で仕方なかった。笑顔で歌っている最中に、ふと目に入る。お客さんがずっとスマホを見て、表情を変えずにいる。早く次が出てこないかなと、ちょっとつまらなそうな目が語ってる。それでも私は、いつも通り笑って歌って踊るんだ。そんなことができる自分が、最近信じられなくなってる」
「それは……」
「もし、最後のイベントで同じ光景を見たら。もし、ガラガラの観客席で涙を流さないといけなくなったら。あたしは、せっかく応援してくれたファンの人たちに、最悪の思い出を叩き付けて終わってしまうかもしれない。それがたまらなく不安で、怖い」
凪砂の顔に赤みが差し、瞳が揺れる。
「こんな不安に押し潰されて醜態をさらすくらいなら、最初から舞台に立たないほうが何倍もマシだ」
輝夜は声がかけられなかった。
(これが、花咲さんの本音……)
千影も黙っていた。芸能界に身を置く人間として、凪砂の不安は痛いほど理解できるのだろうと、輝夜は思った。
千影の表情は悔しそうだった。
凪砂が肩の力を抜く。
「くだらないプライドだと思うよ。自分でも情けないし、みっともないとも思う。『花咲』なんて名前負けもいいところだよね。でも、この凡人らしいプライドにしがみついて、無理に背伸びしなかったからこそ、12年間やってこられたんだと思う。でももう、ちょっとさ。限界。気持ちがぐちゃぐちゃになっちゃって」
「凪砂さん……」
「こんなみっともない姿を、千影にも見せたくない。だから……イベントは中止することにした。これはあたしなりの意地なんだ」
ごめんね、千影。こんな先輩で――凪砂がそう言ったとき、千影の目尻に涙が浮かんだ。
小さく嗚咽する後輩に、凪砂は古びた手帳を差し出した。
「それは、あたしが芸能活動をする中で書きためてきたメモだよ。千影がこの世界でどうしようもなくなったとき、見てくれると嬉しい。『こんな足掻き方もあるんだ』って笑ってくれていいからさ」
「凪砂さん、でも」
「千影にもらってほしい。今日、もし会えたら渡そうと思っていたんだ。こうして直接手渡しできたのは、運命なのかもね」
そう言って、凪砂は立ち上がった。
「じゃあね、千影。あんたのこと、ずっと応援してる」
千影は言葉が出てこず、ただ首を横に振る。
凪砂はちらりと輝夜を見て、呟いた。
「あたしにも、クロバラくんみたいな支えがあれば違ったのかなって思う。大事にしなよ」
シワひとつない新札をテーブルに置いて、凪砂は去っていった。
千影は、後を追えなかった。
「千影さん……」
輝夜は気遣わしげに呼びかけるが、それ以上の言葉が続かなかった。
悄然と俯く千影を、どう励まして良いかわからなかったからだ。
綺麗な新札、手の付けられなかったデザートが、虚しさを引き立てる。
ふと、千影が手帳を開いた。ぱらぱらと中をめくりながら、ぽつりと呟く。
「懐かしい。駆け出しの頃は、よく凪砂さんに相談していたっけ」
「千影さんから見て、花咲さんはどんな方だったんですか」
「そうね。世話好きなお姉さんって感じかな。どんなときでも明るさを失わないあの人の姿は、私の憧れだった」
「今、これを言うのは良くないかもしれませんが……千影さんは、花咲さんの良いところをしっかり受け継いでいると思いますよ」
「ありがとう。そう言って貰えると嬉しい」
覇気はないものの、千影は微笑んだ。
「私の男運が悪くて、苦労していたって話はしたわよね。クロバラくんに出会う前は、よく凪砂さんが話を聞いてくれたり、女性陣だけの集まりを企画してくれたりした。事務所も違うのに、私が孤立しないように、気を配ったくれたんだね」
それから千影は、手帳の内容とともに昔のことを輝夜に話した。
凪砂が書き残した手帳には、芸能界で生きてきた花咲凪砂の姿がぎゅっと詰まっていた。どんなときに喜び、どんなときに落ち込んだのか。どんな苦境に襲われ、どのように乗り越えたのか。
凪砂が言っていた『こんな足掻き方もある』という内容そのままだった。
輝夜は黙って千影の話に耳を傾けた。
やがて千影は手帳を閉じ、胸に抱く。
「ねえ輝夜ちゃん。私、本当に凪砂さんには感謝しているの。気持ちよく送り出したかったの」
「……はい」
「それが、こんなことになってしまって。かえって凪砂さんを追い詰めて、傷つけてしまった。若手有望だなんて持ち上げられても、結局、私はこの程度なんだね。勉強も、努力の量も、課題の乗り越え方も……誰かを励ますことも。私は、クロバラくんのように上手くできない」
俯き、小さく肩を震わせる。
その姿があまりにも痛々しく、輝夜は胸が締め付けられた。
周囲の客たちも、ハンカチで目尻を押さえていた。
(かける言葉が見つからない)
輝夜は唇を噛んだ。
引退イベントを中止する――それだけ見れば、ファンへの裏切りと言われても仕方がない。
どんなに苦しくても、辛くても、最後まで笑顔で仕事をやり遂げるべきだ。それが芸能人としての誇りであり、責任だ――そうした正論を言うこともできる。
けれど、千影がこれほど尊敬し、12年も現役で走り続けてきた人物が、最後の最後で心が折れてしまった。何も知らない第三者が、そんな正論を言ったところで、ただ虚しいだけだ。
(あの千影さんが弱音を吐くなんて……)
輝夜にとっては、千影の今の姿も意外だった。自分と比べて、もっと強い人だと思っていたから。
「千影さん。あの、私」
何とか言葉を絞りだそうとしたときだった。
千影のスマホがメッセージの着信を報せてきた。
輝夜と千影の顔に、「もしかして」と期待の色が浮かぶ。
「やっくん……!」
「クロバラくん……!」
メッセージの相手は、ふたりが一番声を聞きたい人であった。




