45話 与えられっぱなしじゃ落ち着かない
騒動を遠巻きに見ていた周囲の客たちから、戸惑ったような声が聞こえてくる。
「やっくんって誰?」
「クロバラくんってどこにいるの?」
輝夜は、思わぬ注目を集めてしまったことに恥ずかしさを感じる一方で、少し悔しい気持ちにもなった。
(皆にも、やっくんの凄さを知ってもらいたい。『やっくんって誰?』じゃなくて、『さすがやっくんだ』って言ってもらいたい。皆の話題の中心に、やっくんがいて欲しい)
この5年間、ときどき感じていた歯がゆさが、ここ最近はずっと強くなっている。
「輝夜ちゃん。あれ見て」
ふと、千影が言った。
通路を挟んだ向かい側のテーブルには、空のコップがひとつ置かれていた。
やっくんの姿は見つからない。それでも、ふたりは顔を見合わせてくすりと微笑む。
まるで目の前にやっくんがいるかのように、二人はそっと囁いた。
「タイミング完璧だったよ、やっくん」
「剣崎マネージャーが甘い物苦手だって、ちゃんと覚えてたんだね、クロバラくん。ふふ、今思い出しても可笑しい。実は私、ああいうコント、好きなのよね」
「きっと今も私たちのことを見てくれているんだよね? やっくん」
「輝夜ちゃん。あれ、やってみましょう。今なら、きっとクロバラくんに伝わるわ」
千影に促され、輝夜は少し赤面しながら頷いた。
それから、二人はそろって同じハンドサインをした。
親指と人差し指で作ったハートマークを、唇にそっと当てた。
「ねえ、やっくん。見てる? 『ハートリップ』のサイン。これは私と千影さんが考えたんだよ」
「いつもこっそりと誰かを助けるあなたに、ぴったりのサインでしょう? クロバラくん、このサインは私たちがあなたの味方であることの印。いつかあなたも、私たちに見せて欲しいな。このサインを」
輝夜と千影は、彼の温かい気配を感じ取っていた。
「前と違って、やっくんをそばに感じます。先輩はどうですか」
「ええ、私もそう感じるわ。ふふ……もしかしてクロバラくん、さっきのサインを照れているのかも」
「え、かわいい」
(あのやっくんが照れてる……もしそれが本当なら、やっくんにとって大きな進歩だよね。私や千影さんが、やっくんの心を少しずつ癒やせているのなら、とても嬉しい)
「照れた顔、見せてくれてもいいのにね。私たちは、どんなクロバラくんでも受け入れるんだから」
「はい。本当に、そう思います」
それから二人は、かけつけた店員を手伝って片付けをし、店内を騒がせたことを周囲の客に詫びた。客からはクレームが出るどころか、「いいもの見させてもらった」と拍手が起こった。
レジで対応した店長は、「お目当ての男性が見つかったら、またお越しください。サービスしますよ」と声をかけてくれた。
店を出た輝夜は、千影に言った。
「千影さん。よければ送迎車でご自宅までお送りしますよ。帰り道で、またあの人に捕まったら心配ですし」
「そう、ね。じゃあお願いしようかしら」
道路脇で送迎車を待つ間、輝夜は気になっていたことを尋ねる。
「剣崎マネージャーを相手に、予定の調整なんて本当にできるのでしょうか……」
「まあ確かに難しいわね。普通に正面から言っただけじゃ、鼻で笑われるのがオチだと思うわ。それどころか、変な交換条件を出されるかも。あの人、人の弱味につけ込むのが上手いから」
千影は渋面を浮かべる。
しばらく顎に手を当てて考えていた輝夜は、「でしたら」と提案する。
「高嶺本家の人脈を使って、社長同士が話し合う場を作ってみるのはどうでしょうか。千影さんの事務所と、千影さんの先輩の事務所、それぞれの社長さんに集まってもらうんです」
千影は目を丸くした。
「ずいぶん大きな話ね。そんなことができるの?」
「実家は人脈作りに積極的なので、うまく説得できれば可能かと。むしろ、普段は表に出たがらない私が自分から人脈作りに励むなら、家族も喜んでくれるかもしれません」
「……いいの? 本当に」
「正直、家の力に頼るのは嫌ですが、これが千影さんややっくんのためになるなら、頑張れます」
おそらく、やっくんも剣崎の厄介さは把握しているだろう。
剣崎の介入を避けて、別のルートから予定の調整をしようとするはずだ。
ならば、高嶺家の力を使って直接交渉の場を作ることは、やっくんの助けにもなるだろう。
(それに、やっくんはずっと自分を犠牲にして私たちを支えてくれたんだ。私だって、ちゃんとリスクを負わなきゃ)
輝夜はそう考えた。
強ばった表情の輝夜を見て、千影はわざと大きな声を出した。
「あーあ、それじゃあコレで貸し借りはなしね」
「え?」
首を傾げる輝夜に、千影は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「実はね、この前のプレイベントで輝夜ちゃんが着た衣装は、私が用意したものなの」
「え!? そ、そうだったんですか!?」
「うん。クロバラくんに頼まれてね。こっそり貸しにしておくつもりだったけど、まさかこんな形でお返しされるなんて思わなかった。クロバラくんも驚くわね」
「千影さんったら……。あの、ありがとうございました。あの衣装、凄く良かったです。おかげでステージ優勝できました」
「輝夜ちゃんの魅力があってこそよ。プロの私が言うんだから、間違いないわ。でも、私も輝夜ちゃんの告白シーンを生で見たかったなあ」
「えぅ……」
「ふふ。だからね、お互い変に気を遣わずに、力を合わせていきましょ」
「はい。この問題を片付けて、今度こそやっくんを見つけましょう」
「そうね。与えられっぱなしじゃ落ち着かないものね、私たち」
そう言って、輝夜と千影はハートリップのサインをした。
輝夜は、千影との距離がさらに近くなったと感じた。
最初は「強力なライバルが登場した」と身構えたけれど、今では千影と出会えて本当に良かったと思える。
千影は、いわゆる上流階級の人だろう。そんな人と腹を割って話せる友人関係を築けたことは、とても貴重だった。
彼女との縁はやっくんが結んでくれたのだ。
千影の問題も、自分のこととして考えたい。
輝夜は、いち友人として、今回の件に真剣に取り組むことを心に決めた。




