4話 特異体質
学園長室に到着する。ひとつ、大きな息を吐いて気持ちを切り替える。
「失礼します。学園長、生徒会の高嶺です。今、よろしいですか?」
「どうぞ」
ノックして呼びかけると、室内から落ち着いた声が聞こえてきた。輝夜は無意識のうちに肩に力を入れて、学園長室に入る。
大きな窓を背に、マホガニー調のデスクに座るひとりの女性。天翔学園の男子生徒たちの間で、密かに人気を博している妙齢の美女だ。
天翔学園学園長、神宮治楓華である。
名字は『寺』ではなく『治める』の字を使う。これは、彼女の実家が名家のひとつである証でもある。輝夜の家とも遠い親戚関係にあたる。
楓華の前に立った輝夜は、資料の束を机に滑らせた。
学園長の机や部屋は、いつ訪ねても綺麗に清められている。どちらかというと片付けが苦手な輝夜は、この部屋に来るといつも緊張した。
「来月の天翔祭に関して、予算資料の最新版をお持ちしました。いくつかご確認、ご相談したいことがあります」
「ご苦労様。それで、気になるのはどこ?」
「はい。まず――」
細い指で資料をなぞりながら、事務的に説明する輝夜。
普段、輝夜は他人に穏やかに接しているが、実家の親戚に対しては心に壁を作っている。必要なこと以外はほとんど話さないこともある。
輝夜にとって高嶺家とその親戚たちは、自分を束縛し、さらに『やっくん』を家から追い出した人々だった。
5年経った今でも、心理的な溝は消せない。
それと比べれば、楓華はまだマシと言えた。輝夜にとって数少ない、『普通に話せる親戚の大人』である。
楓華は輝夜の実家について触れず、あくまで学園のいち生徒として接してくれるからだ。
「――以上が報告内容になります」
「わかりました。プレイベントも近いし、必要な措置は講じていきましょう」
「ありがとうございます。それでは、私は授業がありますので、これで失礼します」
最後まで事務的な態度を崩さず、輝夜は軽く礼をして踵を返した。
「そういえば、輝夜」
ふと、楓華が下の名前で輝夜を呼んだ。
「あなたと同じ生徒会役員、九鬼さんとあまりうまくいっていないと聞いたわ」
「……。学園長にご心配されるようなことはありません。それに、こういうことには慣れていますので」
「そう。けど、ひとりで抱え込むのはよくないわ。辛くなる前に、誰かを頼りなさい」
教育者として諭す楓華。
すると、輝夜は振り返った。髪先とスカートの裾が、どこか機嫌良さそうに翻る。
「大丈夫です。私には、とびっきり素敵な味方がいますから」
輝夜はきっぱりと言った。学園長室に入ってから初めて見せる、心からの笑顔だった。
◆◆◆
ぱたん、と学園長室の扉が閉められる。
輝夜の足音が遠のいたのを確認してから、健二は楓華にぺこりと頭を下げた。
さらに「感謝します」とばかり顔の前で手を合わせる。
健二は楓華と話すとき、身振り手振りやスマホのメモ機能を使って筆談している。
楓華は肩をすくめ、「やっぱり気付かなかったわね、彼女」と答えた。
部屋の隅に立つ健二へ、しっかり視線を向けながら。
輝夜が予算内容について説明している間、健二はずっと同じ場所に立ち続けていた。
楓華は健二が認識できている。
輝夜には健二の存在が見えていない。
輝夜だけでなく、他の人たちも同じだ。
「健二君がずっと傍にいたのに気付かない。相変わらず、凄まじいステルス能力ね」
「……ん(特異体質みたいなものです)」
健二は答えた。
楓華は教育者としての経験ゆえか、それとも付き合いの長さか、健二の拙い返事でもだいたい意味を理解していた。
楓華は机に片肘を突くと、昔を思い出したのか少しだけ眉をひそめた。
「私も若い頃に、あなたと似たような経験をしたけど……それと比べても、健二君のはとても強力だと思うわ。そして長い」
以前聞いた。楓華も学生時代、明らかに人から認識されなくなる経験をしたという。
もっとも楓華の場合、数年でその体質は自然消滅したようだ。
校内で健二の姿を認識し、会話できるのは今のところ楓華だけだ。普通なら大騒ぎになりそうな状況だが、健二はむしろこの状態を前向きに受け入れている。
「確か、君が『黒薔薇 耶倶矢』から今の名前に変わった頃からよね。そのステルス能力――特異体質が発現したのは」
「……はい」
「……寂しくないの?」
「……はい」
健二は頷く。
――健二は13歳のとき、氏も名も変わった。
黒薔薇 耶倶矢。それがかつての名前。輝夜が『やっくん』と呼ぶ理由。
輝夜と離ればなれになってしばらく後、健二は今の養父母に引き取られた。
その際、『佐藤健二』に改名したのだ。
黒薔薇の名は、今でも時々使う。
恩返しをするなら、少しでも影響力のある名前を使った方がいい――と、今は本家にいる妹から助言されたためだ。
(俺には、たくさんの味方がいる。恩を返したい人がいる。寂しいだなんて、言ってられない)
健二の顔を見た楓華は大きく息を吐いた。
「健二君。あなたは徹頭徹尾、黒子でいることを選んだのね。けど、無理はしないで。寂しいとき、つらいときは私を頼りなさい」
「……ん(ありがとうございます)」
頷いてから、健二はスマホをタップした。筆談代わりのメモ帳アプリを見せる。
『けど、俺は今の体質に満足しています。楓華さんが言うとおり、俺は自ら望んで黒子になったんです』
楓華が複雑そうな顔をしたので、健二は付け加えた。
『この体質のおかげで、俺は心置きなく恩返しができています。だから、むしろ今の状況は自分にとって都合がいいんです。寂しいとか、つらいとか、そんな贅沢は言えません』
「贅沢、か」
『はい。黒薔薇家に捨てられたときのことを思えば、全然マシです』
そして少し考え、真顔でメモ帳に打ち込む。
『笑笑笑』
「……なにそれ」
『俺に感情があれば、ここは笑い飛ばすべきところかと思って』
「似合わないことはおやめなさい。健二君、ただでさえ突飛な行動を取りがちなんだから」
怒られて内心しゅんとする健二。
再びため息をついた楓華は質問を変えた。
「それより、輝夜に姿を見せないの? 私のときみたいに、自分から接しようと思えば少しは違うんじゃない?」
『俺の姿をここまではっきり認識できるのは楓華さんくらいです。それに何より、幻滅されたら怖いので』
「幻滅?」
『姿を見せたことで一度失敗しているんです。あんな思いはもうしたくない』
健二の無表情を、楓華がじっと見つめる。
険しい角度を描いていた柳眉が、ふっと緩んだ。
「わかった。好きにしなさい。実際、あなたの働きには私も助かっているし。ただ、これだけは覚えておいて。あなたの献身は誰にも真似できるものじゃない。そこは自信を持ちなさい」
そう言って、優しげな笑みを向ける。
健二は精一杯の感謝を込めて、頭を下げた。
感情が乏しくなってしまった今でも、感謝の気持ちだけは残っていることを、健二は本当に幸いだと感じていた。
『ありがとうございます。楓華さん』
「楓華叔母さんでいいわよ。今は私たちしかいないのだし」
ひらひらと手を振る楓華。
彼女は、健二の養母の妹。正しく叔母であった。
超が付くほど奔放で放任主義な義父母の代わりに、健二の世話をしてくれた人物である。
だから、健二にとってはもうひとりの母親のような存在だ。
楓華への恩返しも、健二の大事な目的である。
ひとりでも多くの人に、恩を返す。喜ぶ姿を見る。
そうした経験を積み重ねていけば、いつか失った感情を取り戻せると、健二は信じている。