39話 千影の過去
紫月千影は、子どもの頃から芸能畑を歩いていた。その恵まれた容姿、華やかな笑顔、大人顔負けの物腰で、子役として舞台やテレビで活躍していた。
そんな彼女の大きな悩みは、『男運の悪さ』であった。
小学生の頃から、雰囲気も身体つきも早熟だった千影は、よく痴漢やセクハラを受けていた。
いくら千影でも、幼い頃から繰り返し被害に遭えば、男に対して頑なになる。
中学生になって、新しく千影のマネージャーになった剣崎という男は、モラハラ気質だった。
「やめなよ。これは君のためを思って言ってるんだ。いくら人気があっても、君はまだ子どもだし、女の子だからね。黙って言うことを聞いて入れば間違いないから」
こういう内容のことを、彼はことあるごとに口にした。
そのときの剣崎マネージャーの視線が、千影はとても苦手だった。
こうした積み重ねから、中学生までの千影は内心でかなり男嫌いをこじらせていた。
いくら大人びていても、芸能人として成功していても、まだ中学生。
自分の感情に振り回されるのは仕方ない。
千影はこの頃、男性を避けるあまり、仕事上のコミュニケーションにも支障が出るようになっていた。
一時は、女優の道を諦めようと思ったことさえあった。
そんなときである。
千影のもとに、「クロバラ」と名乗る人物から贈り物が届いたのだ。花束と励ましのメッセージカードが、事務所の傍らに置かれていたのである。
しかも、それは定期的に続いた。
不思議なことに、誰も花束を置く瞬間を見たことがなかった。クロバラがいったいどんな人物なのか、誰もわからなかった。
千影本人は、「どうせ厄介な男性ファン」と冷淡に考えていた。
しかし、少しずつ考えが変わっていく。
クロバラから送られてくるメッセージは、彼女の悩みや苦しみに寄り添うものばかりだった。
時には、男嫌いが原因で仕事に身が入らない千影を、やんわりと叱る内容もあった。
毎回、手書きのメッセージが添えられていたことも、千影には好印象だった。
もちろん、恐怖感も多少あった。正体のわからない相手に逐一観察されているのだ。危険はある。
けれど、千影はクロバラのメッセージを受け取り続けた。特に剣崎マネージャーはメッセージを捨てさせようとしたが、千影は拒んだ。
これまで剣崎から受けたモラハラへのささやかな反抗のつもりだった。
そんな状況でも、クロバラは千影に、周りと話すよう促していた。千影が孤立しないよう気遣っていたのだ。
彼は、ただの厄介ファンじゃないかもしれない。下心もなく、ただ純粋に私の味方になってくれる人かもしれない。
そう思った千影は、行動に出る。
いつも花束が置かれる定位置に、こっそり返事の手紙を隠しておいたのだ。
「お礼を言いたいので、少しお話しませんか」と、手紙に書いた。
すると次回のメッセージでは、クロバラは千影と会うことを丁重に断ってきた。
「自分はあくまで、恩返しをする側だから」と。
千影は落胆すると同時に、「クロバラくんらしい」と思った。そう思えるほど、彼のことを信頼している自分にそのとき気付いたのだ。
(けど、恩返しって何のことだろう?)
そう思った千影は、メッセージの続きに目を通す。するとそこには、クロバラが千影のことを知った経緯が書いてあった。
少し前に事務所で手伝いをしているときに、偶然、千影が演技の練習をしている場面を見た。
その演技に感動し、クロバラは涙を流した。
クロバラはとある事情から、感情が大きく欠けていた。だからこそ、何かに感動して涙を流せたことは、彼にとって大きな衝撃であり、人生の転機となったのだ。
花を贈り、励ましのメッセージを書くのは、自分を変える手助けをしてくれた千影への恩返しなのだ。
メッセージには、そのように書かれていた。
(私の演技で、クロバラくんが感動してくれた……嬉しいな)
千影にとって、それは久しく忘れていた感覚だった。自分の演技で誰かを喜ばせたい、感動させたい。
クロバラの言葉は、千影に女優としての原点を思い出させてくれたのだ。
ただ、わからないこともある。
千影は、クロバラの姿を見た記憶がなかった。メッセージによれば、クロバラは千影がひとりで練習しているときに見かけたという。
だが、いくら思い出そうとしても、千影にはそれらしい人物に心当たりがなかったのだ。
その後、親しくしている事務所職員に頼んで、こっそり監視カメラの映像を見させてもらった。
しかし、そこにもクロバラらしき姿は映っていなかった。
自分を励ましてくれて、演技に感動してくれて、女優の原点を思い出させてくれた人。
その正体は謎に包まれている。
いつの間にか千影は、クロバラに強い興味を持ち始めていた。
それから半年ほど経過し、千影は天翔学園に進学した。
そんなある日のことだ。
「あれ? ない……」
いつもの場所にクロバラからの花がなかったのだ。
千影は落胆した。
最近は彼からのメッセージを心待ちにしていたのだ。
(きっと、何か大事な用事があったんだろう)
その日は、心の中でそう言い聞かせつつ、スケジュールをこなした千影。
仕事を終え帰路に就いたとき、彼女は違和感を覚える。
(誰かに、尾行されてる?)
千影は、自分の男運の悪さを自覚していたため、定期的に帰宅ルートを変更していた。今歩いているのは、最近変更したばかりのルートだ。
それにもかかわらず、つかず離れずの距離でずっと後をつけてくる男が現れた。
ストーカーだ。
千影は目を見開いた。
(まさか、クロバラくん……!? いえ、そんなはずはないわ。あの人はずっと私を気遣ってくれたもの)
直後、千影は首を横に振った。大きくなっていたクロバラへの信頼が、疑念を上回った。
(自宅にたどり着く前に、撒かないと)
そう思っていたときだ。
不意に、背後で誰かがもみ合う音がした。
千影は後ろを振り返ることなく、一気に走り出す。ストーカー男が追ってくる様子はなかった。
自宅マンションへ無事避難できた千影は、大きく息をついた。
「もしかしてあのとき、ストーカーを捕まえようとしてくれていたのは……」
窓から外をうかがう。
すると、パトカーの赤色灯がいくつも光っているのが見えた。
そして翌日。
千影は、事務所のいつもの場所に花とメッセージが置かれていることに気付いた。
『しばらくは、親御さんか事務所の信頼できる人に送ってもらった方がいいと思う』
『今日は、できるなら早めに切り上げて休むこと』
メッセージには、そんなさりげない気遣いの言葉が書かれていた。
(間違いない。ストーカーに気付いて私を助けてくれたのは、クロバラくんだ)
千影は胸が温かくなると同時に、自分が一瞬でもクロバラを疑ったことを恥じた。
助けてくれたことへのお礼をしたい。
疑ったことへのお詫びと償いをしなくちゃいけない。
千影はスマホを取り出す。それからメッセージカードの余白に「助けてくれてありがとう、クロバラくん」とお礼を書き込んだ。
SNSのアドレスとともに。
そのメッセージカードを、いつも花が置いてある場所の近くにこっそりと隠した。
きっとクロバラくんなら気付いてくれると思った。
プライベートで男性に連絡先を渡すなんて、千影は初めてのことだった。
嫌悪感はなかった。
むしろ、クロバラのことをもっと知りたいという気持ちで胸が高鳴った。
こんな感情を抱くのは初めてだった。
その後、クロバラから初めてのメッセージが届いたとき、千影は思わずスマホを両手で握りしめた。
『これからもよろしくね。未来のマネージャーさん』
こうして、千影と「クロバラくん」とのやり取りが始まったのだ。




