35話 千影の相談事
それからネコマタはするりと健二の膝に移動し、背中を撫でてもらった。健二の手つきは、彼が悩んでいたときよりも優しくなっている。
健二の隣に、夕津姫は腰掛けた。
『わしは本来、火伏せと安産を司る水の神じゃ。本来、人間の恋愛事は管轄外。できるのはさっきのようなちょっとした励ましのみ。それくらいは許してくれ、我が眷属』
『……夕津姫様は、『影絵の界』を作られたにゃ。それはちょっとした励ましには収まらないにゃ』
『今だからこそ言うが、わしも自分で驚いておる。まさかわしにこれほどの力があったとは、とな』
夕津姫は社を振り返った。
『ケンジと関わったことで、わしは新たな力を得たのじゃ。本来持っていた水の神としての力が、ケンジの願いによって進化した。ケンジに授けた『影絵の界』は、静かな湖面のように穏やかな力じゃ。だから、波風が立てばその力は弱まり、水がなくなれば、今まで隠れていたものが表に出てしまうのじゃ』
ネコマタは「なるほど」と思った。健二のステルス能力には、水の神としての夕津姫の特性が活かされているのだ。
健二が自分から表に出るかどうかは、彼自身の決断にかかっているのだ。
健二が表に出ず、今のままでいることを望む限り、夕津姫は彼を温かく守り続けるだろう。たとえ新しい力が得られず、やがて力が尽きてしまうとしても。
『何もできずに力が尽きるのを待つだけだったわしでも、新しい力を得られたのは、ケンジのおかげじゃ。今はとても満たされた気持ちだ。できれば、ケンジの心も同じように満たされてほしいのじゃがな』
『……だからって、さっきの恋愛おみくじは調子に乗りすぎにゃ』
『おい、我が眷属。せっかくわしが良い話にもっていったというのに、無粋な突っ込みをするでない。泣くぞ?』
『で、本心は?』
『わしだってケンジといちゃいちゃしたいんじゃよぉぉ……』
涙で伏せる水の神様。ネコマタは「やれやれ世話がやけるにゃ」と呟いた。
そのとき。
健二のスマホがメッセージの着信を報せてきた。
◆◆◆
(千影さんからだ)
スマホの画面を見た健二は、自分の頬を軽く叩いて気持ちを切り替えた。
『これまでの歩みを信じて進め』――不思議なおみくじに書かれていた言葉を胸に刻み、メッセージを確認した。
:こんばんは、クロバラくん
:まずはごめんね
:高嶺さんのお手伝い、ほとんどできなかったよ
:気にしなくていい
:千影さんは悪くないよ
:俺が無理言ったのが悪いんだから
:おや?
:その物言いだと
:私と高嶺さんの間で何があったか
:気付いてるみたいだね?
相変わらず妙なところで鋭いと健二は思った。
画面の向こうで、こちらをからかうような笑みを浮かべている千影の姿が、目に浮かぶ。
:びっくりしたなー
:ウワサの「たかちゃん」が
:まさかあんなに可愛い子だったなんてね
:クロバラくんも鼻高々でしょ?
:ああいう子に好かれて
:からかわないでくれ
:プレイベントは欠席したけど
:ウワサはばっちり耳にしたから
:誤魔化したって無駄ですよー
:何なら動画上がってるのも見たし
:あれ、消した方がいいよね
:そうなのか
:ありがとう、教えてくれて
:すぐ対処するよ
:さすが敏腕マネージャーさん
ハートマークの絵文字付きでメッセージが届き、健二は首を傾げた。
ずいぶんと機嫌が良さそうに見える。
輝夜とは対照的だ。
:そんな敏腕マネージャーに、ちょっと相談があるんだ
:仕事の話なんだけど
:どうしたんだい
:実は、今度大きな会場でイベントをすることになったんだ
:ほら、クロバラくんにも陰で色々動いてもらったやつ
:学校の試験が終わったら大々的に宣伝される予定
:すごいじゃないか
:おめでとう!
:千影さんの事務所、ずいぶん力を入れていたものね
:うん
:けど、ちょっと困ったことがあって
:私、実は別のイベントに出たいって思ってるんだ
:それも、演者としてじゃなくて
:いち観客として、プライベートで観に行きたいイベントがあるの
健二は眉をひそめる。
千影は落ち着いた物腰ながら、仕事に対するプロ意識は高い人だ。一度決まった仕事を、プライベート優先で放り投げるようなことはしない。
:千影さんがそんなことを言うって
:よほど大事なイベントなんだね
:うん……
:君のマネージャーさんには?
:言ってない
:言って聞くような人じゃないし
:あのひと
千影の口調に初めてトゲが出た。
:実は、子どもの頃からお世話になってた先輩が引退するの
:その最後の晴れ舞台が、私のイベントと重なっちゃって
:先輩は、小さな会場でも常に全力でお客さんのために歌って、踊っていた
:どんな小さな役でも全うしていた
:確かに無名ではあるけれど
:私の憧れであり、芸能生活の指針となった人なの
:なるほど……
:せめて最後は見届けたい
:けど、先輩が出演するステージはとても小さくて
:私が観に行くのをウチの事務所がOKするとはとても思えない
:大きな迷惑がかかることは私もわかってる
:それなりに長くやってるから
:けど、せめてひと目だけ、一声だけでも
:先輩の努力は無駄じゃない、私の中に生きていますって伝えたい
:つまり、千影さんのイベントに穴を開けることなく、先輩さんの晴れ姿を見届ける方法はないかってことだよね
:うん、そうなの
:こんな無茶を相談できるのはクロバラくんだけ
:何か、いいアイディアはないかな
健二は腕を組んだ。
いまや有名人となった千影のリスケジュールは簡単ではない。千影も言ったように、もはや彼女だけの問題ではないからだ。
しかし、千影の「先輩の努力は無駄じゃない、私の中に生きていますって伝えたい」という言葉は、健二の胸に響いた。
以前、輝夜から「頑張ろうって思えた」と言ってもらえたことで、健二は自分の恩返しが少し報われた気持ちになった。
千影の、先輩への想いはそれと同じだ。無駄にさせたくない。
『これまでの歩みを信じて進め』。神様の言葉をもう一度噛みしめ、健二は頷いた。
:わかった
:千影さんが先輩のイベントに参加できるよう
:リスケジュールに協力するよ
:ありがとう、クロバラくん
:さすが私の生涯マネージャー
健二は頭を掻いた。
『生涯』マネージャーという言い方は、最近千影がよく使うフレーズだった。
(千影さんにとって深い意味はないんだろうけど……さすがに持ち上げすぎだ)
しかし、悪い気はしない。
輝夜と同様、こうして頼られれば、それに応えたいと強く思う。
自分はひとりではないと理解できるから。
(たかちゃんも、千影さんも、俺のことを必要としてくれているんだ)
メッセージのやり取りを終えた健二は、改めて気合いを入れ直した。
「……うん(これは落ち込んでいる場合じゃないな)」
恩返しは自分にとって必要なこと。
そして、自分にはそれしかできない。
もし、恩返しをすることで輝夜や千影たちとすれ違ってしまったとしても、そのときは、さらに努力して関係を修復していくしかない。
(そうして早く感情を取り戻すことが、たかちゃんたちの期待に応える近道だ)
そう考えた健二は、これまで以上に輝夜たちのそばで支え、できる限りのことをしようと心に決めた。




