32話 お姉さんがいたら
輝夜は、しばらく無言で千影とともにプレイベント関係の書類をめくった。
衝立の向こうでは、杵築たちが立ち尽くしていた。
突然の事態に、どう動けばいいのか分からなくなったのだ。
輝夜と千影の様子を、杵築たちは固唾を呑んで見守っている。
杵築がメッセージを送ってきた。
:輝夜!
:何がどうなってんの!?
:先輩、やっくんのクロバラを知ってた
:やっくんのクロバラってなに!??
:もしかしてやらしい意味なのか!? そうなのか!?
:違います
(けど、先輩はやっくんと黒薔薇家との関係をどこまで知っているのだろう。昔のやっくんを知っているのは、私だけだと思っていたのに)
スマホをしまった輝夜は、昔のことを思い出した。やっくんと初めて出会った、13歳の頃のことだ。
黒薔薇家は、高嶺家と双璧をなす名家だった。
やっくんはその嫡男で、『黒薔薇耶倶矢』と名乗っていた。
黒薔薇家を追い出されたやっくんは、高嶺家で一時的に保護されることになった。
両親を亡くした幼い少年をひとり放り出すのはしのびない――輝夜は、高嶺家がやっくんを預かった理由をそのように聞いていた。
やっくんに対する輝夜の第一印象は、「表情がない怖い子」だった。
しかしその後、やっくんが保護されるまでの経緯を知り、「表情がないのは、心に深い傷を負っているからだ」と、輝夜は子どもながらに理解した。
家の影響で不自由を感じていた輝夜は、この新しい同居人に親近感を覚え、声をかけるようになる。
そして、驚くほどすぐに仲良くなった。
困ったのは呼び名だ。
ふたりの名前はそれぞれ、耶倶矢と輝夜。下の名の読みが同じなのだ。
ニックネームで呼ぼう、と提案したのはやっくんの方だった。
やっくんは輝夜のことを、名字から取って「たかちゃん」と呼んだ。
輝夜は、気を利かせて彼を名字ではなく名前から「やっくん」と呼ぶことにした。
やっくんは表情の変化に乏しい子だったが、決して冷たいわけではなかった。むしろ、自分のことよりも相手を気遣う、優しい子だった。
自分にも他人にも厳しい家で育てられた輝夜にとって、やっくんは特別な存在になっていった。
祖父母に叱られて押し入れに引きこもっていた輝夜を、やっくんが最初に見つけてくれたとき、輝夜はまるでヒーローが来てくれたと思った。
それほどまでに、輝夜はやっくんに惹かれていた。
やっくんの心の傷を、自分が癒やしてあげたいと強く思うほどに。
実家の束縛にうんざりしていた幼い輝夜は、やっくんに「家出したい」と無理を言い、やっくんはその願いを叶えてくれた。
あの雹の日のことを、輝夜は今でも鮮明に覚えている。
無表情だったやっくんの顔に小さな笑みが浮かんだのを見て、「やっくんを笑顔にできるのは自分だけだ」と、当時の輝夜は思った。
――だから。
(私以外に、やっくんがこんな凄い美人な芸能人とも知り合いだったなんて、ちょっと複雑かも)
輝夜は、作業を続ける千影の横顔を見つめた。
それから意を決して、尋ねる。
「あの、紫月先輩」
「ん? なあに」
「先輩はやっくんと……クロバラくんと、どういう関係なんですか?」
千影が目を丸くする。
衝立の向こうでは、杵築たちが「そうだ攻めろ!」「マウント取ったれ!」と静かに盛り上がる。
千影は少し考える仕草をすると、不意に悪戯っぽく微笑んだ。
「ずっと見守ってて欲しい、頼れるマネージャーさん――かな?」
「マネージャー……?」
「そう。クロバラくん、私なんかに恩があるみたいで、ことあるごとに恩返しって色々サポートしてくれるの。その仕事ぶりがね、本職のマネージャーよりもずっと頼りになるマネージャーって感じなんだよね」
「恩、返し……」
「それが自分の役割だって言ってたよ。高嶺さんも、きっと覚えがあるんじゃないかな」
思わず「はい」と頷きそうになって、輝夜は視線を逸らした。
そして、千影に見られないように、こっそりと頬を膨らませる。
(やっくんったら、もう!)
やっくんが自分以外にも恩返しをしていたと知り、拗ねた気持ちになる。
けれど一方で、こんな有名人にも認められるほどだなんて、やっぱりやっくんはすごいと思ってしまう。
不満と誇らしさという相反する気持ちが混ざり合い、輝夜は思わず体を震わせた。
そんな輝夜を、千影は不意に抱きしめる。
「せ、先輩!?」
「ごめんなさい。何だか可愛く見えて」
千影は声に出して笑っていた。大人っぽい人だと思っていたが、こんな風に無邪気に笑うこともあるんだと輝夜は思った。
千影が至近距離で囁く。
「高嶺さん、思ってたよりもずっと可愛い」
「……っ!?」
「お互い、クロバラくんのために何ができるか考えましょ」
まるで妹に励ましの言葉をかける姉のような口調。輝夜は赤面して慌てた。
そのとき、衝立の向こうから杵築が勢いよく飛びだしてきた。
輝夜と千影を引き剥がすと、間に割って入る。そして大きく息を吸うと、杵築は腰に手を当てて言った。
「紫月先輩! お手伝いは間に合ってます!」
「あら」
「後は私たちに任せてください。なので! どうぞ先輩は試験勉強に集中してください!」
「あらあら」
背中を押された千影は、苦笑しながら生徒会室の扉に手をやった。
そこで輝夜を振り返る。
「それじゃ高嶺さん、またね」
輝夜が慌てて頭を下げると、千影は気を悪くした様子もなく手を振って、生徒会室を出ていった。
息をついた輝夜は、友人に言う。
「ねえ杵築さん。何もあそこまでしなくても」
「甘ぁいっ! 甘いよ輝夜!」
襟元に掴みかかりそうな勢いで杵築が迫る。他のクラスメイトたちも続々と集まってきて、輝夜を取り囲んだ。
「やっくん捕獲大作戦の第1弾はどうやら失敗……。でも、ここからが本番よ、輝夜。強力なライバルの存在も明らかになったことだし!」
「ラ、ライバル……?」
「紫月千影先輩よ! いい輝夜!? これは戦争。やっくんを巡るラブ戦争だよ! ここで引いちゃ駄目!」
そうだ、そうだとクラスメイトも口々に同意する。
「あのトップオブトップが恋のライバルか……燃える展開じゃない!」
「高嶺ちゃんの方が胸がおっきいんだから、自信持って!」
「あんた、それセクハラ」
「使えるモンは使ってナンボでしょーが。相手はあの紫月千影だよ? げーのーじんだよ!?」
「それにしても、まさか紫月先輩までやっくんを、ねえ……。ホント、何者なのかしら。高嶺さんの思い人って」
「捕まえればすべてわかるわ」
「そうね、是が非でも捕らえないと」
「紫月先輩に浮気した理由をたっっっっぷり問い詰めないとね。逃げられないように軟禁して……誰か手錠持ってる?」
「いや何でよ」
「あたし持ってるー」
「いや何でよ」
盛り上がるクラスメイトたち。
ひとり置いてけぼりを食らった輝夜は、千影が去っていった扉を見つめた。
(……やっぱり紫月先輩のこと、嫌いにはなれない。もし私が普通の家庭に生まれて、上に姉がいたら、こんな気持ちになるのかな。それに……紫月先輩のような人が、やっくんの恩返しに感謝していると知って、少し嬉しいかも)
輝夜はスマホを取り出し、やっくんとのメッセージを見返す。
(先輩と協力すれば、やっくんの孤独をもっと癒やしてあげられるかもしれない)
「輝夜!」
「は、はい!?」
杵築に呼ばれ、輝夜は姿勢を正す。
「メッセージ送れ! やっくんに!」
「え?」
「先輩とどういう関係なのか問い質すのよ。やっくんがどう思っているかわからないと、対策立てられないでしょ! これは戦争なんだから!」
「すごいやる気になってる……」
「いいから送れ!」
「わかりました!」
輝夜はスマホに視線を落とした。




