2話 『影の薄さ(強)』の佐藤君と『美少女転校生(強)』の高嶺さん
――5年後。10月初旬。
早朝の私立天翔学園高校の生徒会室は、シンと静まりかえっていた。
有名実業家や芸能人がスポンサーについているだけあって、校舎には金がかかっている。どの施設の外観も内装も綺麗なものだ。
18歳となった健二にとって、この清潔な光景は結構なプレッシャーである。
作業服姿の彼は、施錠されていた生徒会室にマスターキーを使って入りこむ。
学園でも選りすぐりの人材が集うこの生徒会室は、いつもならどこかのベンチャー企業の執務スペースのように、整然としているはずだった。
だが今は、生徒会室の一画が散らばった資料で雑然としている。
「……(昨日、たかちゃんがぼやいてたとおりだな)」
本人は独り言を呟いたつもりでも、ハタからみればただ無表情の男が無言で突っ立っているだけ。それを指摘する人間は誰もいない。
自身の表情筋や口を閉じる筋肉が、ずっと動かされていないと健二は自覚している。特に声を出すことは、5年前よりもさらに苦手になっていた。
昨日のぼやきは、チャットアプリで輝夜とやり取りしたときのものだ。
5年前に離ればなれになった高嶺輝夜。彼女が天翔学園の2年生として転校してきたのは、つい1ヶ月ほど前だ。
それですぐ生徒会役員に抜擢されたのはさすがだと健二は思う。
子どもの頃から可憐だった輝夜は、成長して超が付くほどの美人になっていた。名前の通り、夜でも人目を引きつけるような輝きを放っている。
昼間であっても人に埋もれる健二とは真逆だ。
だが健二は、とある理由から輝夜と会っていない。
――5年経っても感情がうまく表に出せない俺は、嬉しいと感じても、まだ笑うことができない。それは、まだ恩返しが足りていない証拠だ。そんな自分が、たかちゃんと直接会うのは気が引ける。今はメッセージのやり取りだけで十分だ。
健二はそんな風に考えていた。
作業に取りかかる前に、健二はスマホを取り出す。養父母経由で入手した輝夜の連絡先に、メッセージを打ち込む。
:おはよう、たかちゃん
:今日で転校から1ヶ月だね
:まだまだ愚痴を溜め込んでるのは知ってるぞ
:ちゃんと吐き出すように!
「……むん(送信、と。よし、やりますか)」
気合いを入れ、健二は袖をまくった。
片付け作業に取りかかる。
散らばっていた資料を整理し、完了した書類とまだ手をつけていない書類を、それぞれ分かりやすく並べ直した。
そして机と床を丁寧に掃き清める。
最後に、手作りの焼き菓子を入れた紙箱をテーブルの上に置いた。輝夜が食べたいと言っていたフィナンシェだ。
「……うん(我ながら美味しく焼けた。たかちゃん、喜んでくれるといいな)」
――これが、健二が今も続けている恩返しのひとつ。
感情を取り戻すための小さな一歩である。
ひととおりの作業を終えた健二は、静かに生徒会室を出た。
廊下を歩いていると、朝練や日直の生徒たち数人とすれ違う。
だが、誰も彼を気に留めない。
それどころか、気付いている様子すらない。
作業服の男なんて、いかにも目立つ格好をしているのにもかかわらず、だ。
お喋りに熱中している女子生徒ふたりの間を通り抜けたが、彼女たちは無反応だった。まるで風が通り抜けたようである。
そう。
健二は影が薄い。
それも、『神がかり的な特異体質』と言えるほど、他人から気づかれないのだ。
だが、健二はその体質を不満に思ったことはない。
こうして誰にも知られずに恩返しを続けることこそ、健二が本当に望んでいたことだったからだ。
それに――。
「……!(たかちゃんから返事が来た!)」
スマホに目を落とした健二は、ほんの少しだけ口元を緩ませた。すぐに自分の頬に手を当て、彼はホッと息を吐く。
少しずつ、本当に少しずつだが――成果は出ている。
人知れず続ける恩返しに、彼は確かな手応えを得ていたのだ。
寂しいとか、孤独だとか、そんなことを考えている暇はない。
◆◆◆
――健二が生徒会室を出たのと、同じ頃。
校門前に人だかりができていた。
その中心にいるのは、ひとりの女生徒。
彼女はスマホのメッセージを見て、くすりと微笑む。
「もう、やっくんたら。相変わらず心配性なんだから」
柔らかな唇に親指が触れそうな位置に手を添える。その口元の笑みを隠す仕草からは、育ちの良さが自然とにじみ出ていた。
絹のように滑らかな髪をショートボブに整え、そこから見える額から頬にかけてのラインは、まるで計算されたかのような美しさだった。
スマホ片手でも姿勢は崩さず、ゆっくり歩くたびに制服のスカートがほんのわずかに揺れた。
均整の取れた肢体に、周囲の男子生徒だけでなく女子生徒も釘付けになっている。校門前の人だかりは、生徒たちが惹き付けられ、自然発生したものだった。
怖ろしいほどの超絶美少女こそ、高嶺輝夜その人である。
輝夜が天翔学園へ転校して1ヶ月。
才色兼備に加えて天然もののカリスマ性を備えた彼女は、あっという間に人気者となっていた。
あまりの人気と才媛振りに、急遽生徒会役員に異例の抜擢をされるほどだ。
「輝夜さん」
そんな輝夜に、下の名前で呼びかけるひとりの男子生徒。
周囲がざわついた。
「あいつ、3年の三之下じゃね? 男テニ主将の」
「えー、ちょっとウソでしょ? 三之下センパイって彼女いなかったハズじゃないの?」
「あぁ……三之下に目を付けられたら勝ち目ねぇじゃん俺たち」
男子テニス部主将の三之下は、絵に描いたような爽やかイケメンで通った男。天翔学園には各方面から優秀な生徒が集まりやすいが、その中でも指折りの超優良物件である。
そんな男が――。
「どうか俺と付き合って欲しい。残りの学生生活、君とともに過ごしたいんだ。いや、その先もずっと」
ストレートかつTPOそっちのけの告白を公衆の面前で行った。
この場にいる生徒たちの3分の1ほど、そして三之下本人も、二人はお似合いのカップルだと思っていた。
輝夜は小首を傾げた。
「はい?」
「いや、はい?って……」
「ごめんなさい、スマホに夢中で気づきませんでした。何かご用ですか? 三下先輩」
「三之下、ね。そのネタは軽くトラウマだからやめてもらえるかな? いちおう、精一杯の気持ちを込めた告白だったんだけど」
「告白」
きょとんと瞬きする輝夜。その仕草もまた愛らしい。
畳みかけることも忘れて見とれる三之下に、輝夜は言った。
「ごめんなさい。私には心に決めた人がいるんです」
うなじが見える程、丁寧に頭を下げる輝夜。三之下は上擦った声で上げた。
「こ、心に決めた人? それは、いったい誰なんだい?」
「やっくんです」
顔を上げ、わずかに頬を赤らめ、にこり。
その破壊力に圧倒された三之下は、膝をついてその場に崩れ落ちた。
周囲の生徒たちは驚いて騒然となる。
「あ、あの三之下がフられたぞ!? マジかよ」
「やっくんって誰!?」
「てかセンパイ、ちょっと満足そうなのは何で?」
騒然となる周囲を尻目に、輝夜は校舎に向かって歩き出した。
そして再びスマホを取り出し、メッセージアプリを起動させる。鍵をかけているアカウントを選択し、たったひとりとのやり取りを表示した。
:おはよう、たかちゃん
:今日で転校から1ヶ月だね
:まだまだ愚痴を溜め込んでるのは知ってるぞ
:ちゃんと吐き出すように!
「ふふっ」
メッセージを見て、幸せそうに笑う輝夜。そのまま上機嫌にメッセージを打つ。
:なにそれ
:やっくんだけだよ、そう言ってくれるの
:ありがとう!
輝夜は知っている。
「ありがとう」は、『やっくん』が一番喜ぶ特別な言葉だということを。
だから彼女は何度でも伝える。
輝夜はスマホを愛おしそうに抱きしめた。
「いつかちゃんと、やっくんの前で言いたいな。5年前のあの頃みたいに」