10話 影絵の界
日が暮れてきた。10月ともなると、日が沈むのも早い。
境内の草むしりを切り上げた健二は、本殿に深く礼をすると、ネコマタを呼んだ。帰りは抱っこして戻るつもりらしい。
『はぁ。いいなあ。我が眷属、いいなあ抱っこ』
『まあ、ウチは猫だし。役得にゃん』
『いいなあ! 眷属いいなあ!』
木船に乗り込んだ健二の背後を、ふよふよと夕津姫が浮かんで追ってくる。どこからか取り出したハンカチをくわえて悔しそうにしている。
そんな面白やり取りが繰り広げられているとは知らず、健二は慎重に木船を操っていた。
夕津姫とネコマタのやり取りを健二は知覚できない。健二は霊感が皆無なためだ。
夕津姫がどんなにアプローチしても伝わらない。それが彼女の一方通行な想いをますます募らせる結果になっていた。
『もはや悪霊一歩手前にゃ』
『眷属……そなた、生みの親に向かって何たる暴言を。そもそも、わしは神じゃぞ!? こう見えて!』
『夕津姫様。人間の世界ではストーカーって言うにゃ。便利な言葉にゃ』
『眷属が神をいじめる!』
夕津姫が健二に抱きつく。
だが当然、触れることはできない。健二も無反応だった。
ネコマタがため息をつく。
『最近は健二しゃんの学園にまで出張ってきて。困った創造主にゃん』
『だってケンジの踊り、見たいし。一番見る機会があるのが学校なんじゃから、仕方なかろ?』
アレを見たいの?とネコマタはげんなりして髭を垂らす。
健二は時折、踊る癖がある。特に、『ハカ』という名前の踊りを好んで踊るのだ。
元々、ハカは己や味方を鼓舞するための踊りなので、振り付けもかけ声も大変勇ましい。
が、健二はそれを無表情で踊るものだから、シュールなことこの上なかった。
もっとも、健二にはステルス能力があるため、校内で話題になることはない。
ネコマタは健二の顔を見上げた。
『それにしても、健二しゃんが【影絵の界】をあんな風に活用するにゃんてねぇ』
『さすがわしのケンジ! 気合いを入れて加護を与えた甲斐があるというものじゃ!』
『やりすぎのような気がするにゃ……』
対岸に到着。健二とともに岸に降りたネコマタは、健二の後ろを追いかけてアパートの自室へ帰る。
その間、通行人がすれ違っても健二には気づかない。せいぜいネコマタに「猫がいる、猫!」と指を差すくらいだ。
夕津姫が健二に付与した加護――これを【影絵の界】と呼ぶ。健二が『特異体質』と考えているステルス能力の正体だ。
その効果は、他人から姿も声も認識されなくなるというものだ。彼の持ち物も同じように認識されなくなる。
先ほどの通行人が健二をスルーしたように。
【影絵の界】は、健二の「誰にも見つかりたくない」という強い願いと、夕津姫の健二への想いが合わさって生まれた力だ。そのため、【影絵の界】は常に発動している。
ただ、この力も万能ではない。
霊感が強い人間や、すでに霊的な影響下にある人間には効きにくい。天翔学園の学園長、楓華は後者だった。
そして、【影絵の界】が効果を失うケースはふたつ。
ひとつは、夕津姫が健二から手を引くか、あるいは力を失い、加護が消失したとき。
もうひとつが、健二自身が目的を果たし、ステルス能力を不要としたときだ。
『健二しゃんの「目立ちたくない」って願望は本当に強いにゃ。普通の人間ならこんな状況、きっと耐えられずにおかしくなってしまうにゃ』
『一志貫徹。素晴らしいことじゃないか!』
『そうやって夕津姫様がおだてて持ち上げるから、健二しゃんはこんな怪物になったにゃ。危なっかしくてほっとけないにゃ』
『それは違うぞ、我が眷属。ケンジは怪物ではない。傑物というのだ!』
『夕津姫様はブレないにゃ』
健二に続いて家の中に入るネコマタ。飼い猫というより、ほとんど居候のような気安さである。
彼女はトコトコと居間を横切ると、ベランダに面した窓際に座った。
窓の先には、どこかもじもじした夕津姫が浮いている。
ネコマタが半眼で言った。
『そのくせ、いまだにビビって健二しゃんの部屋に入れないにゃんて、ヘタレな神様にゃん』
『だって! ケンジが生きて呼吸して痕跡を残しまくる空間じゃぞ!? 境内を掃除してもらって気持ちよくなるのとは次元が違うじゃろ!? それに巷で言うではないか、推し活は距離感こそ肝要であると! 寝顔は見ても裸は見ない慎ましさが良いのじゃ!』
『ドン引きする内容を早口で説明するの、絶妙に気持ち悪い……』
『我が眷属が辛辣!』
さめざめと泣く主に向かって、ネコマタは語りかける。先ほどよりも、真剣な口調で。
『夕津姫様。健二しゃんが【影絵の界】を必要としなくなったとき、それは夕津姫様が健二しゃんとお別れするときにゃ。その覚悟はあるんですかにゃん?』
『あるわけないじゃろう』
『正直すぎる即答……。いいですか夕津姫様? 健二しゃんが受けた加護は【影絵の界】だけじゃないにゃ。夕津姫様の神通力のおかげで、健二しゃんの才能は大きく伸びたにゃん。それは健二しゃん自身の努力の結果でもあるけど……あの人は、すでに普通の人間をはるかに超える能力を身につけているのにゃ』
『さすがわしのケンジ。さすケンじゃ』
『寒』
『ひどい』
『ウチが言いたいのは、いつまでも健二しゃんを黒子にし続けるのは無理があるってことにゃん。夕津姫様の力は無限ではないにゃ。いつ、どんな拍子で【影絵の界】が失われるかわからにゃい。それに、健二しゃんの方が【影絵の界】を枷と感じ、それを捨て去る日が訪れるかもしれないにゃ。そうなったら、夕津姫様は――』
『それでもわしは、今の在り方を変えるつもりはないよ』
夕津姫の表情がスッと引き締まった。
彼女はベランダに降り立つと、窓ガラスに背中を預けた。
『わしは、黒子に徹するケンジが好きじゃ。あれほど誰かのために身を捧げられる人間は見たことがない。神として生まれて初めてのことじゃ』
『夕津姫様……』
『わしは今、ケンジの献身と祈りによって生きながらえておる。彼がいなければ、とっくに社殿は朽ち果て、草木に飲み込まれていたであろう』
ちらりと室内を振り返る夕津姫。台所で食事を作る健二を、彼女は愛おしそうに見つめた。
『もうわしの力も、そう長くは保てない。さすがのケンジでも、社殿をすべて新しく建て直すことはできぬからな。だからこそ、心から幸せになってほしい男に、残る力のすべてを注いでもよいと思うのじゃ』
『報われない恩返しにゃ……』
『神が報いなど気にしてどうする。それにな、我が眷属よ。これはただの恩返しではない。恩返しへの恩返しじゃ』
ネコマタに視線を戻す夕津姫。
『だから、ケンジが目的を達成するまでとことん付き合ってもらうぞ、我が眷属よ』
『やれやれにゃ』
尻尾を一振り。ネコマタは踵を返した。このつれない眷属は、嫌なら嫌ときっぱり言う。
ツッコミがないということは、つまり、そういうことだ。
夕津姫は満足そうに頷くと、健二が眠りに付くまで彼を見守り続けるのだった。