1話 佐藤君の恩返しの始まり
佐藤健二にとって、雹が降る日は人生の転機だった。
12歳のあの日。季節外れの雹がバラバラと降っていた日に、健二は名門であった黒薔薇家から捨てられた。
大きな氷の粒が身体にぶつかって、痛くても、悲しくても、健二は涙を流せなくなっていた。
彼は思った。
「僕の心はボロボロの穴だらけになってしまったんだ。お祖母様たちの言うとおり、できそこないの人間なんだ」――と。
今でも拭えないトラウマである。
――が。
健二の場合、このトラウマへの向き合い方が、普通の人間と大きく異なる。
なにせ、彼は羞恥心とか、孤独感とか、そういった感情まで穴が空いてしまったのだから。
そんな健二に訪れた次の転機は、翌年。13歳のとき。
「たかちゃん。一緒に外に出よう」
「いいの?」
「うん。助けてもらった恩返しだから」
健二は親しくなった女の子の家出を手助けした。このときも雹が降る日だった。
たかちゃん――高嶺輝夜は、健二のひとつ年下の大人しい子だった。
高嶺家は、実家を追い出された彼をたとえ名目上でも保護してくれた家だ。輝夜は高嶺家の令嬢であった。
大きなお屋敷を抜け出した健二と輝夜。
不安そうな美少女を励ますことは、たとえ子どもであっても男の本懐だと健二は思った。
だから、健二は――踊った。
「ふんっ! はっ! とうっ!」
「え、ええっと?」
「ごめんね。歌もあるんだけど、そっちはまだ覚えてないんだ」
「……??」
覚えたばかりの『ハカ』――ニュージーランドの伝統的な踊りを、雹が降る中披露したのだ。
大物である。
元々は戦いの前に士気を上げるための荒々しい踊りを、羞恥心ゼロの無表情で踊る健二。輝夜はぽかんとして見つめていた。当然である。
健二は、大真面目に言った。
「これ、『頑張るぞ、負けないぞ』って踊りなんだって。たかちゃんを励まそうと思って。はっ!」
「私を、励まして……」
「うん。ファイト、高嶺。頑張れ、輝夜」
口調は熱く、しかし顔は無表情で語るシュールな少年、健二。しばらく呆気に取られていた輝夜は、思わずといった様子で吹き出した。
「ぷっ! あはは! なにそれ、すごい!」
「負けるな輝夜。すごいぞ輝夜。えいっ!」
「あはは、あはははっ! あー、お腹痛い!」
笑ったことで緊張がほぐれ、気持ちが吹っ切れたらしい。
輝夜は、傘に当たる雹の音にはしゃぎだし、くるくると踊るように回った。名家の令嬢らしく、そのおふざけもどこか優雅だった。
健二は無理矢理彼女に合わせようとして、足をもつれさせる。そのまま輝夜を巻き込んで一緒に倒れてしまった。
輝夜は、心底楽しそうに笑っていた。
「初めての家出で、何もかも新しくて、楽しい!」
こんなに喜んでくれるのなら、家出を手伝って良かったと健二は思った。
追い出された健二を保護し、仲良くしてくれたのは輝夜だ。本来、世話になったのは健二の方なのだ。
これは、彼にとってほんのささやかな恩返しのつもりだった。
「そっか。よかった」
「あ、ちょっと笑ってくれたね」
「え? 笑った? 僕が?」
「うん。あ、今はスンとなった」
健二は自分の頬を撫でる。表情筋はいつもどおり固まっている。
しかし、輝夜は言った。ちょっと笑ってくれた、と。
(もしかして、僕の感情が少し戻っている……? でも、どうして?)
「やっくん、ありがとう」
輝夜がそう言って微笑んだとき、健二は不思議な気持ちになった。
胸の中に、ほんのわずか温かい感情が戻ったのだ。
トラウマのせいで、自分からは『嬉しい』という感情が欠けてしまったと思っていたのに。
そのとき、彼は思った。まさに雹の降るこの日、天啓のような気づきを得たのだ。
こんなふうに恩返しをしていけば、もっと感情を取り戻せるんじゃないか――と。
――しかし、健二が輝夜の家に居られたのはこのときが最後だった。
家出を手伝ったことがバレて、彼は高嶺家からも追い出されてしまったのだ。
そのとき、健二は心に決めた。
恩返しを続けよう。
輝夜に恩返しをして、また「ありがとう」と言ってもらおう。そして、笑ってもらおう。そうすれば自分も、もっと笑えるはずだ。
そうだ。この手で誰かを笑顔にすれば、自分にもまた笑顔が戻り、喜びの感情を取り戻せる。
だから、これからもずっと恩返しを続けよう。
健二は高嶺家から立ち去るとき、とある神社で誓いを立てた。
「誰の迷惑にもならないよう、人知れず恩返しを続けていきます」
この『誓い』をきっかけに、彼は変わったのだ。
以来、健二はあらゆる状況に対応できるように様々な経験を積み、努力を重ねた。どんな困難があっても、きちんと恩返しが続けられるように。
離れ離れになった輝夜には、あるときはメールで、あるときは贈り物で、またあるときはこっそり手助けをして――ひとつ、またひとつと小さな恩返しを積み重ねた。
輝夜が喜ぶ様子を見る度に、健二はちょっとだけ胸の中が温かく、ちょっとだけ笑えるようになった。
「ありがとう」という言葉の積み重ねが、自分の感情を取り戻す力になると信じて。
佐藤健二は今日も、恩ある人々に小さな恩返しを続ける。
文字通り――『人知れず』。
だが、健二は理解していなかった。
見返りを求めない恩返しが、どれほど強く『彼女たち』の心を掴んでいたかを。
黒子に徹すると決めたせいで、大捜索が始まってしまうことを。