第二章:広瀬彰人
――科学は国を統べ得るか
政庁の内部は静かだった。
白を基調とした壁面に余計な装飾はなく、ガラスのパーティション越しに見えるのは、整然とした廊下と無数の書架。重厚さでも権威でもなく、冷静な知性によって構成された空間。
案内係の青年が軽く頭を下げ、早紀を応接室に通した。
その部屋にも政治の匂いはなかった。天井近くまで本が積まれ、ディスプレイには数式とシミュレーション映像が流れている。
「お待たせしました」
声がして、扉が開く。入ってきたのは、想像よりずっと飾り気のない人物だった。
白髪混じりの短髪に、薄いグレーのワークジャケット。手にはデジタルペンとタブレット。
広瀬彰人──福島独立国 初代首相。かつては東京大学で量子物理学を教えていた科学者であり、原発事故以降、廃炉と復興の中心にいた人物。
「市川早紀さん。記事は読んでいます。“国境のある日本”という表現、興味深かった」
「ありがとうございます。正直なところ、現実感を持つのに少し時間がかかりました」
「当然です。“非現実的”であることを恐れないのが、この国の出発点ですから」
微笑すら浮かべずそう言う彼の姿は、やはり政治家というより研究者だった。
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「なぜ、科学で国を治めようとしたのか」
それが、早紀の最初の質問だった。
広瀬は少し黙り、背後のディスプレイを指した。そこには、原発事故後の空間線量と人口移動の相関グラフが映っていた。
「これは事故から5年分のデータです。避難区域と非避難区域で、どちらが本当に安全だったかを示している。
政府の判断ではなく、事実が人の命を左右した。私たちはまず、“判断”の構造自体を変えなければならなかったんです」
「それで…、科学者が国家運営を?」
「“統治”ではなく、“運営”です。福島国は官僚制ではなく、システム工学と透明なデータ処理によって合意形成を行う社会を目指しています。感情や政治的都合ではなく、予測と検証を軸にした判断モデルに基づいて、すべての政策を設計する。
我々の言葉で言えば、社会そのものをアルゴリズムとして最適化している。それが“科学立国”の本質です」
早紀は、その言葉の重さを測りかねた。
政治や外交、宗教、文化──世界のほとんどの国が、それらに根ざして築かれている。
だがこの国は、事故によって全てを失った代わりに、「科学だけを残す」ことを選んだのだ。
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ふと、部屋の窓の向こうに目を向けると、小さな広場に複数の国旗が立っていた。
その中には、ウクライナとガザのものもあった。
「…あの車列、今朝見かけました。特使が来ているのですね」
広瀬は頷く。
「原子炉事故、都市爆撃、無電化地域への技術支援。フクシマは、かつて助けを求める側だった。
今は、“人類共通の失敗”に立ち向かう支援者になりつつある。技術とは、本来そのように使われるべきです」
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取材はわずか1時間程度で終わった。だが早紀の中では、世界観が大きく変わった気がしていた。
感情で語る政治、情緒で動く報道、偶然に揺らぐ世論。そのどれとも無縁に見える国家が、今ここに存在している。
その夜、早紀は宿舎のベッドの上で取材メモを整理しながら、広瀬の言葉を思い返していた。
「非現実的であることを恐れない。それが、この国の出発点」
現実を壊したのは、原発だった。
ならば、現実を作り直すのは──科学なのかもしれない。