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皇帝の平和

神の分け前(モイライ)

作者: かのこ

 子供ができたのだと、ユリアは幸せに顔を輝かせながら言った。

 近くにいたティベリウスは、興奮気味の妻に視線をやり、満更でもなさそうな顔をしている。ユリアを見る表情が意外にも柔らかい。

 こいつにもこんな一面もあるのだ、と思った。

 俺とは学友とか幼馴染といっても良いほどのつきあいがあるのに、初めて見た気がする。前妻のいた頃さえ、人間的な愛情表現をするのだろうかと疑問を抱いていたほどだ。

 双方の親や周囲の重圧の中、この夫婦にようやく子供が授かった。本人たちには「余計なお世話」だったことだろう。 

 だが一般家庭のように「夫婦なんだからそのうち」とはいかないだろうと思われた。性格や価値観の不一致は否めず、双方の痛ましいほどの妥協と歩み寄りがなくば、崩壊しそうな夫婦関係でもあったのだ。

 三度目の結婚が命じられた時、ユリアは「これは父が生きている限り続くのだ」と悟った。

 選択された相手が義理の兄であることもさることながら、またしても「離婚させてまで」というやり口は、さすがに異常だった。「もう自由にして欲しい」と人目もはばからずに号泣していたユリアを見ていたから、ああこれで少しは楽になれるのだ、と思った。

「ま、お疲れさん」

「……」

 見る間に不愉快そうになり、ティベリウスは俺を睨んだ。なんとまあ遠慮のない視線なことか。呪い殺されそうだ。

 このためだけにこの男は、ユリアと結婚したのだ。愛妻を捨ててまで、自分の利益を選んだということでもある。

 アグリッパ将軍の娘と離婚させられる時に、こいつは相当抵抗したそうだ。周囲にはわかりにくかったがこの堅物は、妻に惚れていたらしい。本当に他に女を知らないらしく、純情なところもあるもんだと俺などは感心して拍手をし、マルケラは憂鬱そうな顔をした。自分が前夫と離縁させられた時のことを、思い出したのだろう。

 それでもユリアとの結婚を受け入れたのだ。野心がなかったという言い訳はきかない。大いに結構。それでこそローマの男だ。アウグストゥスに嘆願されて、撤回するような夫婦愛ってのも、実にヤツらしい。結局親には逆らえない、いい子だということだ。

 自分の母親を寝取った姦夫を義父と呼ばされ、いい年して未だに両親の顔色を見ているわけだ。俺みたいに親に死なれてた方がマシではないかと思うことすらある。少なくとも殺したくなる前に死んでてくれている点では無害だ。(俺が非情なのではない。オヤジは女王クレオパトラの連れ子にまで言及しときながら、俺に遺言では触れてもないし、遺産も残さなかったのだ。生きてローマに帰っていたら、絶対にグレてやったとこだ)


 ユリアとアグリッパ将軍の子供たちに子供が生まれる頃には、ユリアは解放されるのだろうか。ティベリウスの後にユリウス家を継ぐ、血筋を残せるという目処がたてば、もう充分だと許されるのだろうか。

 その頃にはユリアも悠々自適の貴婦人(マートローナ)で、ティベリウスにギャーギャー言って「うるさい女だ」と無視される、仲の悪いありがちな夫婦になってることだろう。


「やっぱ違和感はあるよな。義理の兄妹だったんだから」

 庭に出て侍女たちとのんびり日向ぼっこをしているユリアを眺めながら、そんな愚痴が出た。

「それ以前の問題だ」

 日陰にある柱に寄りかかったティベリウスは、眉間に縦皺を作りながら返事を寄越した。こちらの意図を深読みもせず、即答だった。珍しいことに。

 こいつは特に潔癖だったから、性格的にも兄妹ということでもユリアのような女を抱くのには、悲劇の台本を書き上げられるほど鬱々と、悩んだはずだ。ま、ある意味人生投げたようなもんだから、この先恐れるものはなくなったかも知れないが。

「アウグストゥスの一族の女っていう、手駒だしな」

 俺もこいつもその弟も、ユリウス家の血筋の女と婚姻関係にあり、世間様には将来は順風満帆と見なされていた。しかも俺なんて現在、三十二にして泣く子も黙る執政官様だ。もちろん第一人者の「そういえばまだやっていなかっただろう、一度やっておきなさい」との思し召しだ。執政官を経ないと就けない役職もある。順調過ぎて怖いくらいだ。

 だがどうだろう。俺はもちろんティベリウスも、女たちが夫を失うとその補充としてあてがわれる種馬でしかないし、逆にある日突然「マルケラと離婚しろ」と命じられるかも知れない。もしユリアが急死したら、アウグウトゥスの血統に近い女と言えばオクタウィア様の娘たち、ということになるからだ。その場合は「何故か」を二、三質問した後に「わかりました」と言うしかない。

 そもそも妹、せいぜい幼馴染としか見てなかった女との間に、夫婦愛だの求められても違和感はあった。その背後に控える重圧が先にたつし、妥協と無視で何とか夫婦でいるようなものだから、今のティベリウスと大差はない(それとも一般の夫婦もそんなものかね)。まあ救いなのは婚姻関係は純粋にアウグストゥスの信頼の証であることと、けして貰い手には困ってるわけではない、美人の家系だってことか。というかそれしかないのだが。

「なんつーかこう、初々しさとかときめきとか、そういうのもないしなあ。プライド高いわ。『どうせ出戻りだから』とかひねくれてて、『くそー、前の男なんざ俺が忘れさせてやらあ』ってな感じになるし」

 ティベリウスがこれまた御遠慮なく「莫迦か」という顔をした。おそらくギリシア語の罵倒の言葉が頭の中を巡っている。

「ユリアに生まれる子も、私が死ねばないがしろにされるのだろうな」

 男か女かはわからないが、生まれる前からその程度の計算は当然するものだ。

「アウグストゥスとリウィア様の孫でもあるから、別格かも知れんけど。年齢が下だからな。扱いは知れてるだろう」

 既に養子にした二人が後継者候補なのだから、それをさしおいてというのもおかしいだろう。

「確実に言えるのは、自分が生き残るしかないということだ」

 ティベリウスやドルススも、リウィア様に男児が生まれていたら、パラティウムに引き取られていなかったかも知れない。父親が死んでアウグストゥスにも子供が望めない、と考えられたからこいつもユリウス家の養子にしてユリアの配偶者というあわせ技で、なんとか後継者にされているようなものだ。

「あの人、案外くたばらねーよな」

 近くに他者はなかった。だが誰かが耳をそばだてていたとしても、ティベリウスは聞き流すことも、話題を打ち切ることもしなかったかも知れない。疲れたようなため息をもらした。こいつもアウグストゥスの死を念頭に入れて、ユリアと結婚したはずだ。自分が先に死ぬのでは、採算がとれない。

「俺たちより生きたりしてな」

 あの男が死ぬのを今から計算して何が悪い。向こうがティベリウスの死を前提に勘定しているのだ。

「お主が死んだら、今度はドルススにでもユリアをやるのかね」

 アウグストゥスも、個人的にはティベリウスよりドルススの方を気に入ってる。ま、ティベリウスの嫁にしちゃ、ウィプサニア・アグリッピナは身分は低かったし、子供が生まれてもアウグストゥス的にはさほど可愛くはない。あの人の場合、自分の血をどれだけの割合で引いているかで、きっちり愛情の深さが決まる。


「ユリアとドルススが、異母姉弟だという噂があるが」

 そのこともあってアウグストゥスにはドルススは別格なのだ。実にわかりやすい。

「そう思いたければ、信じれていれば良い。ドルススは離婚させられることはない」

 ティベリウスは冷めた口調で切り捨てた。当の弟は噂に悩んでいるのだが、そういう考え方もアリか。

「あの人の血筋の可能性があれば、子供たちも安泰だろうしな」

 俺としてはドルススの健康さと背丈と軍事的才能だけで、アウグストゥスの実子というセンは消えてると思うが。下手したらドルススの美徳は全部、自分の血統や養育の結果だとでも考えていそうだ。男ってのは可能性がある限りは、自分の子だとどこかで信じ続けていたいものなのかも知れん。

 ティベリウスがユリアとの結婚を受け入れた背景には、その辺もあるような気がした。「ティベリウス、もしくはドルススを離婚させる」という案だった場合、「ならば仕方ない」とティベリウスが折れるしかない状況でもあったのだ。そもそもアウグストゥスにとってアントニアは自分の血族だったから、ウィプサニアとは比べ物にならないほど大切でもあるのだし。

 さすがに外では口にはできなかったが、あれほど自分に忠誠を尽くして死んだ親友でも、死後その娘にはあのような仕打ちで報いるのかと背筋が凍った。その切り替えの早さは、過去には俺や異母妹たちを救ってはくれたのだが。

 大マルケラは何を今さら、とでも言いたげな表情で言った。

「さほど不思議とも思いません」

 確かにアグリッパ将軍本人とマルケラを離婚させた人だ。義理の息子の離縁など、痛くもないだろう。

 俺はアウグストゥスの限界を思う。非人間的で他者の苦痛を想像力することも出来ない愚鈍さ。もはや誰も諌める者もいない哀れな王だ。

「ドルススには、このような思いはさせたくない」

 と言うよりも、離婚を受け入れる前にドルススはアウグストゥスに逆らっているだろうから、ティベリウスはそっちを避けたかったのだろう。

「俺もだ。ドルススの妻は俺の異母妹だし」

 小アントニアを、大マルケラやウィプサニアのような境遇におとしたくはない。ドルススとアントニアだけは守ってやりたい。そう思うティベリウスの気持ちは理解できた。

 しかしこの場合、誰よりも傷ついているはずのユリアのことは、皆どうでもいいのだ。アウグストゥスの一人娘として生まれた以上は、どんな境遇にも堪えるのが当然と見なされている。

 必死に前向きに生きようとしているユリアの姿が、俺には不快だった。不自然で歪んでいた。手を振るユリアの明るさも、それにうなずいてみせるティベリウスの微笑もいびつだった。パラティウムの空気は濁り、澱んでいた。だが記憶をたどればこれまでも、ずっとそうだった気がする。空気の悪さにも麻痺してしまっていたのだ。

「……だから、逆らわなかったのか」

 突然、こいつの従順の理由に納得がいった。

「お主なら、全部ほっぽり出して国外に亡命しても、ローマに未練などないと思っていた」

 弟だ。ドルススのことを考慮して、動けないでいるのだ。

「ではお前には、ローマに執着はあるのか?」

 ティベリウスが俺に対して深い質問したことなんて、あっただろうか。

 長年知り合いをやってきて(トモダチではない)、ティベリウスとこれだけ時間を費やして、細かいことを話しこむことは、ほとんど初めてと言っても良いくらいだった。

「やっぱ家族とか……子供たちとか」

 オクタウィア様に世話になった恩もあるし、家族が大事だと思っているし、やはり俺はローマ人だからだ。ローマの常識や法の及ぶ土地以外での暮らしを、考えたことはない。

「家族か。婚姻も血縁も、何の意味があるのだ」

 ティベリウスは母親すら信用しなかったし、妻のユリアなど他人でしかなかった。唯一愛した女を捨て、守るために我が身を犠牲にした弟のドルススには、義父に対する批判的な発言で手を焼いていた。

 だがこいつも犠牲者であるとは言い切れない。ティベリウスはアウグストゥスの政治には理解を示していた。ドルススのように健全な共和政の復帰を希望したり、「アントニウスの残党」と言われる俺ら元老院階級の一部のように、現体制への不満を抱いていたわけではなかった。

 ティベリウスはアウグストゥスのやり方を支持していた。ただアウグストゥスには軍事的な才能が欠落していて、アグリッパ将軍ほどの権限もなく意見も受け入れられずに衝突もしていた。加えて親子としても性格的に相いれないままだ。ティベリウスとしては私人の幸福は捨て、公人として生きることを選び、アウグストゥスの死を待つことにしたのだ。

 ティベリウスは景色の中のユリアを眺めていた。一見すると幸せそうな風景だが、誰もがそれを偽りだと知っていた。ティベリウスは絶望を振り払い、ユリアも必死に微笑んでいる。


「結局、息子は父親と同じ程度の男にしかならぬのだ」

 ティベリウスがわざとなのか無自覚なのか、解説抜きではわかりにくいことを言いやがった。

「それは俺に対するイヤミですか?」

 その理屈でこられると、俺はこの先何やったって逆賊決定だっつーの。

「一人の男の言いなりで、身重の妻を離縁して保身をはかるような男の息子でしかない」

 こいつは自分が子の親になるという歳になるのに、まだ自分の母親のことを根に持ってたのか。それでも母親の言いなりで先妻と離婚してるし。慕っているのか憎んでいるのかよくわからん。

「そこまで卑下するな。お主は追い出しただけで、妻の再婚の式に出たわけじゃなかろう」

「……」

 確かにこいつの父親は名門貴族だというだけが取り得の凡夫だったが、ティベリウスはそれよりは有能だと思う。それは認める。だが馬鹿の息子であるという事実は消せない。同席させるだけでも常識を疑うが、ティベリウスの実父に花嫁の介添えをさせたアウグストゥスも悪趣味なことだ。ある日を境に実母を失い、泣き続けたティベリウス少年は、長ずるに及び事実を知り、一般人には理解不能なまでにひねくれたわけだ。


「世界を敵に回しても、自分のものにしたいと思うものはあるか?」

 唐突なティベリウスの問いを、即答で否定しようとしたが、とっさになにかが頭の中をかすめたような気がした。

「ドルススにはあるそうだが、私にはない」

 アントニアのことか。オヤジの罪が糾弾されることがあっても、俺が何をやらかしても、奴はアントニアだけは守るであろう男だ。俺ら兄妹の境遇をずっと見てきて、それでもアントニアを選んだのだから覚悟が出来ている。

「天秤にかけて量るほどなら、それはもともと不要だったということだ。なかったものと思えば良い」

 ティベリウスのいう「もの」は、一人の女性、という意味ではない。彼女から派生する日常、幸せな家庭そのものを、不要であるとしたのだ。

 もし今、アウグストゥスが死んだら。

 ティベリウスは最初はドルススを抑え、ユリアの子を尊重するだろう。彼らには実績はある。婚姻関係も申し分ない。弟と共にローマを支配することを考えにいれていないわけはない。ティベリウスたちは慎重に進めることだろう。そうでなければ、今の屈辱に耐える意味はない。

「これが私の『分け前』であるのだ」

 個人の幸福は捨てた。これがティベリウスの本分であるということだ。

 

 じゃあお前にとっては結局、狭い世界が大事だったということになるのか。軍を指揮し、広大なゲルマニアを征しながら、実際には親の言いなりで生きることが正しかった、というだけの生き方というわけか。

 ならばこれまで生きて自分の経験で得たものなど、ないにも等しいってことじゃないか。

 家庭が世界の全てでしかないなんて、赤子がそのまま老人になって、棺おけに入るようなものだ。何も手に入れてはいないということだ。


「俺にはこれ以上欲しいものなんかないけどな」

 与えられるもので我慢する。満足する。それでいい。俺の全てだった異母妹たちも含めて家族は大切にされ、名誉も財産も保証され、官職も経験し、人が羨むような生活をしているのだ。これ以上に望むものなどない。

 生きている。それ以上のことを欲してはいけないと思って生きてきた。

 そしてそれと同じくらいの長い歳月を、矛盾を抱えて生きてきた。

「……そのようには見えぬ」

 こいつがそう思うのも正しい。

 現在の俺はこれ以上は望むことはないほど、満ち足りている。だが欲求を抱くことができないというめちゃくちゃな理由で、俺は飢えていた。

 ティベリウスは俺に視線を向けた。老人のように疲労し、真理の追求を諦めたような哲学者のような瞳だった。

 この先、何を得ても足ることはないと、悟ってしまった人間の顔だ。

 俺もティベリウスも幸せがどんなものかは頭では知っている。だがそれを失うことになっても、手放したことに淡々と慣れてしまう類の人間だった。

 家族、妻も子供たちさえも、生きる支えにはならない。この先、どんなことがあっても自分を幸福だとは感じることのない者なのだ。

 俺たちは似ているのかも知れない。今まで考えたこともなかったが、そんな気色の悪いことを考えた。

 絶望にも慣れて生きていけるティベリウスと、俺はどう違うというのだ。

 

「これが私の『分けモイライ』なのだ」

 うつろな目をして、ティベリウスが呟く。表情は柔らかいが、眼は魂が抜けたように濁っていた。

 俺たちはこれまでもこれからも流されるがままで、引き返すことなど出来はしない。

「人の身である限り、『運命モイライ』のさだめからは逃れられぬ」

 

 モイライ――神の分け前――運命。

 無慈悲なる運命は、神の、死すべき人間への割り当てなのだ。


 だがティベリウスの言葉に、俺は同意できなかった。俺とこいつとは、やはり違う。

 俺は、その運命に逆らうだろう。女神たちがつむぎ、裁つ運命の糸に従うことは出来ない。

 無駄だとわかってる。そこからは逃れられないと知っている。

 それでも。



年齢でいうとティベリウスは32、ユリアは29。それぞれ家庭持ちで子供もいます。

別にアグリッパもマルケラも、離婚や再婚を淡々と受け入れたかも知れない。ウィプサニアもティベリウスと離婚できて、せいせいしたかも知れない可能性は捨てきれず。

でもユリアやユルスが彼を裏切ったからと言って、アウグストゥスが不憫だとは全く思えません。

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