82話
ソラたちが話し合いを終えて食事処を出ると、お茶の用意を持った麻美が建物の外に立っていた。彼女はケビールを見て顔を輝かせるが、すぐ隣にソラがいるのを知って黙って睨みつけてくる。だが、今しがた獣人族協会の設立者として皆に話をしたところだ。自分が王太子の鷹であったことも話した。無為な喧嘩をする価値は一かけらもない。
ソラは彼女を一瞥すると、調査のため部屋に戻ろうとした。
『……この毒婦』
最後の悪あがきだろうか。ケビールどころかソラも聞き覚えがない罵倒語を彼女は呟いた。やはり相手をするだけ無駄だろう。
ふと、ケビールが立ち止まって振り返った。
『ダメ。俺の、妻に、止めてください。悪い言葉』
恐らくケビールが彼女から教わった言葉はそれほど多くない。語順もまだ慣れないようであるし、少ない語彙を繋げ合わせるのが精いっぱいだ。だが麻美がソラを罵倒したことは分かったのだろう。
ケビールは懐から紙の束を出すと、一枚一枚捲って言葉を繋げていく。
『ありがとう、言葉、教えたこと。俺は、ソラが、愛してる。だから……。それなので、女の子、と俺、二人で話す。もうしない』
邯志語を教えてくれてありがとう。俺はソラを愛しているから、女の子と二人で話すようなことはもうしない。
ケビールの言いたかったことが伝わって、麻美は顔を伏せた。そして、ケビールが熱心に邯志語を学んでいたのはこのためだったのだろう。分かってもらえたことを理解して、ケビールはソラを見て誇らしそうな顔をしている。まるで大型の犬だ。
『ケビールの意地悪! お父さんを紹介して欲しいんじゃなかったの? 私のお父さんはここの組合長だよ、会いたいって言ってたじゃない! 私はあなたが好きだから、あなただけを旦那さんにするって言ったのに!』
ケビールの断りはちょっとだけ早かったかもしれない。芳がケビールを小突いた。
「ソラちゃん、何て? 何て?」
「この子の父親がここの組合長だって知ってたならさっさと言えよ馬鹿! 断るのが早いんだよ!」
「なんだそれ知らねぇぞ! 大体、俺はソラちゃんに聞いたんだよ黙ってろ変態野郎!」
取っ組み合いの喧嘩でも始めそうな二人の後ろで、メフシィが咳払いをする。すかさず芳に行けと手振りで合図する。その時の芳の顔は苦虫を噛みつぶしたような苦々しいものだったが、逆らえないことを承知して項垂れた。
芳は落ち込んだ様子で麻美の前へ向かって、軽く礼をした。
『あ、昨日の姦通未遂男……』
『まぁまぁ。僕も結構悩み事が多くてね、昨日は恥ずかしいところを見られちゃったね。女の子にあんなひどいところ見せちゃってごめんね』
『……う、うん』
失敗しやがって、とは流石に言えずに麻美が頷いた。だが未遂に終わったことを責めるような表情をしている。
『ケビールのこと本当にごめんね。アイツったら見る目ないからさ。……でも良かったかもね』
とても同じ相手に求婚した男のいう言葉ではなかったが、ソラは黙認した。方便で収まるのであればそのほうがずっと良い。
『知ってる? 魚人族ってさ求婚するとき女の子を川の中に引きずり込むんだって』
『えっ!?』
『川辺で花嫁衣装を縫ってる子をだよ? 当然、女の子に選択肢はナシ。僕が昨日ソラにしたことより強烈だよ。それで結婚決まっちゃうんだもんね、すごいよねぇ。しかも完全自由恋愛主義。僕の聞いた話によると、求婚前に大っぴらに恋愛してる連中も多いらしい。別れてもお咎めなしだってさ。すごいよねぇ、ケビールなんてモテてたらしいからあっちこっちに唾つけまくりに違いないよ。彼が邯志語を覚えたらこの街に産まれてくる子供は皆、魚人の子になっちゃうかもしれないね?』
大嘘混じりの下世話な話をされて、ソラは首まで赤く染めてそっぽを向いた。それを容認する女だと思われることさえ恥ずかしい、口に出すことも恐ろしい下品な話だ。本当のことが混ざっていることも手口のいやらしさを強調している。
麻美は時折悲鳴を上げながら芳の話を聞き、それから憐れみを持ってソラを見た。
『でさ、僕たちちょっと仕事でどうしても組合長に会わないといけなくてね。アイツは僕たちが責任をもって連れ帰るから、できるだけ早く会えないかな。じゃないとここが大変なことになっちゃう』
『分かった。今日にでも会えないか聞いてくる。……あー危なかった』
捨て台詞を残して麻美が走り去っていった。話の内容が聞き取れなかった面々は、顔を真っ赤にしたソラを不思議そうに見ている。西大陸出身の面々が憐れむ目でソラを見ているのもまた屈辱だった。文句の一つでも言ってやりたかったが、話を収めてくれたことは事実だ。ソラは得意げに自分を見下ろしてくる芳を涙目で睨みつける羽目になった。
「ソラちゃん、ファンなんて言ってたんだ?」
「聞けば聞き腹ですよ」
聞き覚えのない熟語を聞いてケビールは首を傾げる。だが、彼がこちらの言葉を完全に習得していなくてソラは助かったのだ。もし耳に入っていたら、やはりまた二人は取っ組み合いの喧嘩をしただろうから。




