76話
ソラにとっては宿と横恋慕してくる相手より重要なのが熊猫人族の調査だが、この件に関しては案外あっさりと決着がついた。『これで完璧! 熊猫人族の全て』が彼らの手によって出版されていたからだ。ちなみに簡易版で銀貨一枚、村の年寄りとの対談を含めた完全版は分厚い表紙で覆われて銀貨三十枚の高級品だ。更に文化館と呼ばれる建物には貴重な資料も並べられており、入場料は銀貨三枚だ。それでも購入する者がいるのか、強気の価格設定だ。文化館にいる数組の人間は皆身なりが良い。南東大陸の人間もいるように見受けられた。
書籍を全て購入の上で色をつければ、館長だという男が長々と語ってくれるという狼人街では考えられなかった好待遇が受けられた。しかも芳が気に入られたようで二人で対談までし始める始末だった。ソラは思考を放棄して彼らが話す内容を速記することに集中した。
仲間たちは楽しそうに街を満喫している上に、こういったところでは金払いが良いほうがいいから、とメフシィまでも財布の紐を緩める始末だ。ケビールは邯志語を教えてあげると食らいついた麻美にしょっちゅう捕まり、ソラの味方はサーシャだけだった。
「流石に近いのではないでしょうか」
手が痛かろうが何だろうが、仕事は降りかかってくる。ソラは自分が速記した内容を茶屋で清書しながら、婚約者とまとわりつく虫を見せつけられる羽目になっていた。
麻美はケビールが字を書けると知るや否や、辞典まで持ち出して本格的な授業を始めていた。しかもべたべたと彼に触るのだ。今ソラが出て行って話し合いをする時間がないことも考慮に入れた行動だろう。
「すごいね、ありゃ。手に負えないよ」
「……あの方に一番目の妻の座を奪われるくらいなら、私は生涯独身を選びます」
南東大陸にはあまりいないような女性だ。誰が好き好んで家庭の共同経営者と競い合って張り合うのか。後宮のあるような身分の高い人の相手ならともかく、今のケビールは完全な一般市民だった。その妻達の仲が悪ければ最後ひどい目に遭うのは彼だ。
ふと自分が怒ってばかりなことに気づいたソラは閉口した。言ったところで何の解決にもならないことはソラ自身が一番良く知っている。
「愚痴なら聞くからもう少し頑張って。ね、サーシャ。ソラにお茶をもう一杯もらってきてよ。あと飛び切り甘いお菓子もね。サーシャの分も買っておいで」
「お茶とおかしが二つ。分かった」
サーシャの南東大陸語は随分上達したようで、多少固いことを除けばほとんど問題なく会話できるようになっている。それが嬉しいし、今それを共有してくれないケビールに対して更に怒りが募っていた。
対談だけで紙を一巻き使い切ったことにぞっとしながらも、ソラは手を休めることはしなかった。これだけの調査結果を送付すれば、ムルシドもきっと大喜びすることだろう。調査が終われば村の責任者と会って獣人族協会の話もできればしたい。そういう先のことを考えている時だけは、手も勝手に動いてくれるのでソラにとっては都合が良かった。
作業を終えた三人は、温泉で体を温めてから食事処へ向かった。ケビールを誘いたかったが、やはり麻美が傍を離れない。ソラは随分と長い間婚約者とろくに話をしていないことですっかり自信を無くし、ケビールに声がかけられなかった。彼は気づかなかったようだが、その時の麻美の嬉しそうな顔と言ったらなかった。きっとしばらく頭から離れないことだろう。
ケビールを誘うことを諦めた三人は、出来るだけ量が多くて安い店を選んだ。最近特に良く食べるサーシャの好きなものを注文すれば、机がいっぱいになる量だった。ここのところ彼女が本当によく食べてよく動いてくれるおかげで、メフシィも随分と機嫌が良い。狼人族は成人前に急激に背が伸びて筋肉が付き、力も人間の数倍は強くなるという。ソラは調査が終われば今サーシャが着ているものよりも二回りほど大きな服を縫う予定だ。その後自分の花嫁衣裳も縫わねばなるまいが、今そのことを考えるのは憂鬱だった。
「ソラ、この後二人で話せない?」
「構いませんよ」
「折り入っての相談なんだけど、いい?」
言外に芳の部屋に誘われている。いつものソラなら断った。せめてサーシャも同席させられないか、と。見知らぬ男性なら相談自体断った可能性もある。
だが、なぜ第三者を同席させないといけないのか誰にも教わったことはなかったし、意義も意味も理解できないでいる。それに、麻美と離れず行動するケビールに対抗したい気持ちもあった。
「……少しの間なら」
「ありがとう。サーシャには悪いけど、先に戻らせてもらおう。店の人に心づけをすれば送ってくれる」
いつになく真剣な様子の芳を見て、相談内容の深刻さを察知したソラは黙って頷いた。どうにも急いでいる様子だ。あまり食欲も湧かないので食事を切り上げようかと提案すれば、芳はありがたそうに軽く礼をした。
「サーシャ、ごめんなさい。私たちは大切な話し合いがあるので先に戻ります。お腹がいっぱいになったらお店の人に声をかけて送ってもらってください。いいですか? 決して知らない人についていったり、声をかけられても返事をしてはいけませんよ」
「いいよ、分かった」
「ありがとう。じゃあ行こうか」
芳は店員にいくらか金を渡して店を出た。まだ夕飯時は始まったばかりだが、折角遠いところから訪れているからだろう。客たちは次々と店に入り、どこも賑やかな様子だ。西大陸の灯は紙で覆われており光がぼんやりと広がるので、神秘的な景色が広がっている。
光の間をすり抜けるようにして二人は宿へ戻った。




