6話
「これが銅貨……」
「他にも金貨と銀貨があるけど、俺は持ってないや。こんな感じで丸いんだ」
アサドは数日とおかずにソラの元を訪ねた。買い物の仕方や外の話をしてくれて、王宮の外のことをほとんど知らないソラにとって非常に有意義な時間を提供してくれている。自分ばかり教わるのは申し訳ないと申し出たソラに彼が要求したのは、文字の書き方だ。
そんなことで、というソラに字が書ければ仕事が貰えるとアサドは言った。
「……なぁ、ソラ。文字も書けて計算もできるんだろ? 普通に暮らしたいとは思わねぇの?」
思わぬ質問にソラは顔を上げた。鼻水を手のひらで拭きながら、アサドはソラをじっと見ていた。はしばみの目に浮かぶのは憐憫でも侮蔑でもなく、純粋な疑問だった。籠のような部屋で気苦労されるでしょう、と嗤う女官の目とは違う、元居た場所に帰ればいいのに、と睨みつけてくる男たちとも違う。
「どうして?」
だからソラの胸に浮かぶ疑問もつい口から飛び出す。
「ユルク殿下にお仕えできる以上の幸せって何ですか?」
アサドは怯んだようだった。どこか恐ろしいものを見るような目に驚いたのはソラの方だ。自分はただの幸せな奴隷だ。外を自由に歩ける彼に怯えられるようなことはないはずなのに、と。
「外を歩けるし、身分に許された範囲なら好きな仕事ができる」
「鳥人なので市民権なんてないですよ?」
「古いなぁ! そんなのカプラだけだぜ? ミガルティじゃ鳥人がその辺歩いてるし、隣国にセメクがあんじゃん! 俺難しいことは分かんねぇけどさぁ、どこだって行っていいんじゃねーの?」
一体彼はどんな生き方をしてきたのだろう。健やかで、老成していて、無責任という発想がなさそうで、それなのに自分をしっかり持っている。思わずその生き方は楽しそうだと不謹慎な考えをソラが覚えるほどに、アサドは生き生きとしていて魅力的だ。
「……私は、五つの頃に人さらいに攫われて、さる御方に飼われていました」
それでも彼女が王宮から出たいと思わない。
「暗い部屋で鞭で打たれて、歌を覚えさせられました。寒くてひもじくて、『餌』と『歌』以外の言葉も聞けなくて、家に帰りたくて……」
鼻の奥がツン、と痛む気がして、ソラは唇を噛んだ。
血の匂い、むせ返りそうな煙草の匂い。冷たくなった粥、時々棗。陽のほとんど入らない暗い部屋。泣けば一層叩かれるので、声を出さずに泣いた。
今でも暗い雨の日は思い出す。酒で枯れた声の男が、もっと良い声で鳴け、もっと、もっとと自分を鞭打った恐ろしい日々を。
「殿下が、助けてくださいました。文字も言葉も、全部一から教えてくださいました。家も外も恋しいとは思います。とても魅力的です。でも、外に出たいとは思いません」
ソラの手は少しだけ震えていた。そうやって彼女は何度でも辛いことを乗り越えてきたのだ。弱い『鷹』はいらない、子供を残せなければずっとユルクを守れない。これくらいのことで決意を覆せない、と。
「そっか……」
アサドは柵越しにソラの顔をじっと眺め、少し落胆した様子で視線を落とした。そしてすぐに表情を明るくして粘土板に向き直る。それでようやくソラも少し安心して、一緒になって手習いをのぞき込んだ。
「ところでこんな感じで合ってる?」
土で黒くなった爪の手が、不慣れな様子で筆を持ち粘土板に文字を刻んでいる。
「とってもお上手です。あとはここをもう少し……あっ」
柵から外に出そうとしたソラの手から硬貨が滑り落ちた。音がしないので部屋に落ちたのだろう。不運なことに部屋には絨毯が敷き詰められていて、日当たりもあまり良いわけではないので影に入ってしまうとなくしものを探すのに一苦労する。
「俺の金!」
「いやだ、本当にごめんなさい……。どうしましょう、どこかしら」
アサドが柵にしがみ付いて部屋の中をのぞき込むが、見つけられない。ソラも慌ててあたりを見渡すが、それらしいものが見当たらずにいる。
ただの銅貨で、一枚では硬い麺麭を一つ買うので精一杯なのだが、アサドにとってはそれも貴重品だ。それを教わったからソラも顔面蒼白となり床に這い蹲っている。
「いけないわ、今日は殿下がいらっしゃるのに」
「ユルク殿下か! まずい、今日は帰るから、次来るときに返してくれ」
「でもあなた、そんなに何日も王宮にくるお仕事をしているの? まだ六つでしょう?」
すぐに見つけて返したいソラと、今すぐ逃げ出したいアサドが問答をしている間にも時間は過ぎていく。王子が出席している議会閉廷の鐘が聞こえてくる。
「大丈夫、あと一回か二回は来れるんだ。安心しろよ」
鼻をすすりながらそう言われて、ソラはほっと息を吐き出す。それなら次にアサドが来るまでしっかり探しておけばいいことだ。
「分かりました、探しておきます」
「見つけられなかったら、麺麭譲ってくれよ。俺、ちょっと気になってんだ」
羹につけないと食べられないような硬いものしか出ませんよ、というソラの返事に、アサドは手を振って走り去っていく。黴さえ生えてなきゃ大丈夫、とその小さな背中が物語っていた。




