71話
アャースク国内で通訳と数人の乗組員と別れた後、一行は同国不凍港からまた中央大海流に乗って邯志帝国を目指すことになった。港で大量に仕入れた食べ物のうち半数は長期移動中の船に売り、また途中で新しく海流に合流した船からも果物をいくらか仕入れる。
ソラは久しぶりの陽気が気持ちよくて、甲板でのんびりと縫物をしていた。船に乗る前に買い付けた絹と糸だ。花嫁衣裳も縫わねばなるまいが、他の物を縫うことが先決に思われたため時間を見つけて縫っている。船に戻って以来、慌ただしく次から次へと仕事をしているサーシャは、時折ソラのところに来て進捗を確認する以外はほとんど何も言わずに動き回っている。邯志に着いて大きな布が手に入ったらサーシャに服を縫ってやりたいとソラは思っている。
「へぇ、上手いもんだね」
頭上に影が差して見上げると、西大陸風の男がソラの手元を感心して覗き込んでいた。隣を勧める間もなく遠慮なく座ってくる。ソラは男の行動に若干の警戒をしたが、特に求婚をしたり贈り物をしてくる様子はない。また求婚かとうんざりしかけた自分をソラは恥じ、警戒しつつも話を聞くことにした。
「南東大陸の女の子は皆刺繍が上手だって聞いてたけど、噂以上だね。あ、僕のこと覚えてる?」
もちろん覚えている。彼はこれから向かう邯志でも皇帝の印を貰った文呉服店の次男だ。以前より名前だけは聞いたことがあったし、調査団の顔合わせの際に自己紹介もした。彼は竜人族語の通訳としてこの旅に同行している。
「もちろん覚えていますよ。文芳さん」
「芳でいいよ。僕もソラって呼んで良い? 僕たち歳三つしか変わらないんだよね。同僚として仲良くやろうよ」
ものすごく童顔だが、まさか十三歳ではないだろう。彼がしっかり声変わりしていたおかげでソラは相手が十九歳であるだろうことを予想できた。婚約者であるケビールよりも一つ年上だが、調査員の中ではかなり年が近いほうだ。邯志での調査は彼との協力が不可欠だ。
「ええ、もちろん。邯志ではよろしくお願いいたしますね」
ソラの返事に満足したのか、芳は潮風が心地良いと言いたげに遠くを見遣って目を細めた。
「ねぇ、聞いてもいい? この間ケビールと喧嘩してたの何で?」
突然の問いに驚いたが、芳は恐らくそれを聞くためにソラに話しかけてくれたのだろう。調査団の代表とその護衛が喧嘩したままでは都合が悪いから聞きに来たのかもしれない。あまり人に言いたくない話だが、年が近い分何かしら良い話が聞けるかもしれないと考えソラは口を開いた。
「お恥ずかしい話ですが、狼人街はずっと曇っていたでしょう? それで気が滅入ってしまって。きっとケビールさんも似たような理由だと思います」
「そうなんだ。確かに暗いのが続くのは僕も堪えたな。乾燥地に住んでる鳥人族の君は分かるけど、魚人族は川にいることが多いしそんな印象ないから意外だな」
獣人族は体に合った場所に住んでいることが多い。セメクは湿地や川が多いし、鳥人族の村は乾燥した高地にある。これから向かう熊猫人族の自治区は、邯志帝国内の山奥にあるらしい。港に到着してから自治区まで馬で三月かかる、標高の高い場所だという。きっと何かしら理由があるに違いない。
「それにしても、彼がそんなことで君に八つ当たりするような男には見えなかったな。ソラのことものすごく大事にしてるし」
「そうですね、だから私がいけなかったのだと思います」
八つ当たりしたのはソラで、ケビールは別の理由だったようにソラには思えた。
「ですが……お姫様だと言われたことに関しては、正直、いいえかなり腹立たしく思っています」
ソラだって自分に好意を持った男を躱す術くらいアブヤドの村で嫌と言うほど練習させられた。はっきり断ることは最後まで出来なかったが、それでも求婚してくる男たちが答えを求めて再度話しかけてくることはなかった。
「言われてたね。でも女の人って皆お姫様扱いされたいものなんじゃないの?」
「私は嫌です。大人しくしていなさいと言われているようで不愉快です」
「思ったより跳ねっかえりだ」
芳は何がそんなに面白いのか、ソラの話を笑顔で聞いてくれている。自分が変なことを言っているのではないかと不安になり、ソラは声を落とした。
「セメクの女性は皆自立した立派な方ばかりでしたから。私もそうなりたいと思うあまり、腹が立ったのかもしれません」
「なるほどね。君が暗い顔をしていた理由が良く分かった」
芳は納得したように頷いて、その収まりの良い顔いっぱいに気持ちの良い笑顔を浮かべた。どことなくムルシド皇子やユルク王太子を彷彿とさせるような余裕のある笑顔だ。気持ちの落ち込んでいたソラが相手を信用するのに、その笑顔は効果覿面だった。
「そんな時は思ってること全部言って、歌って踊りでもしたら大抵の嫌なことは忘れられるよ」
実体験に基づくような妙に説得力のある語り口だ。ソラは脇に刺繍道具一式を置いて、膝を立ててからそこに顔を埋めた。
「ケビールさんのいじわる!」
「いいぞ!」
「私は私なりに気を付けているのに、しょっちゅう言ってくるんだから! 相手の方が私に興味を持っているのであって、私はケビールさんをお慕いしているのに!」
「言ってやれ!」
「大体、出会った時には成人していたのに、いつまでも子ども扱いして! ひどいわ!」
「過保護だぞ!」
ひとしきり文句を言って怒りが収まってきたソラは、芳の気の抜けた合いの手に思わず笑ってしまった。今まで怒っていたソラがいきなり笑ったものだから、芳の方もつられて笑い、二人は船員たちに訝しまれながら必死に笑いを堪える羽目になった。
仕事から戻って進捗を確認しに来たサーシャに聞かれ、芳は胸を張って自分はソラの友人になったと自己紹介してくれた。生まれて初めての異性の友人だ。ソラは大層気分が良くなり、そしてこれからは男性に話しかけられるたびに警戒するのを止めようと決めたのだった。




