67話
二日目の夜のことだった。調査団が寝泊まりしている小屋は全部で三部屋あり、その中の一室はソラとケビールに宛がわれていた。二人の部屋と言っても、寝床の間には間に合わせの衝立が置かれており顔を合わせないようになっている。だがその効果はそれなりのようで、ソラはやたらに目が合う男性はいるもののこれといった求婚やあからさまな贈り物を渡されることはなかった。
「良かったのでしょうか」
オリガから聞き取った伝承を清書しながら、ソラはぽつりと漏らした。部屋には机さえもなかったが、小卓を寝台に引き寄せて書き物をしている。おかげでケビールのいる側はやたらに暗い。
「何が?」
どことなく眠そうな相手の声を聞いて申し訳なくなったが、言ったところで仕方のないことだ。二人を含む調査団は今ソラが清書している伝承などを調べるために遠路はるばる雪深い国まで来たのだから。
かじかむ指先を擦りながら文字を綴る。ケビールは村にいた時大抵忙しそうに動き回っていたが、狼人街に来てからというもの、ずっと暗がりで大人しくしているだけだ。彼は退屈のあまり詩を吟じようとしていたがすぐに挫折し、それからは時々の溜息以外は何も聞こえなくなった。退屈で気が滅入っているようだ。
「私たちが同室なことですよ。おかげであなたはずっと暗がりにいる羽目になっているじゃないですか」
「まぁ不満がないっちゃ嘘になるけど、そんなことで文句言ってたら終わらないし仕方ないだろ」
やはり彼は寒くて暗いところにしばらくいたせいで苛立っている。ソラにも覚えがあった。このような場所は静かに座っていると不安になる。不安だから苛立って、惨めな気持ちになる。最初の主人のことを思い出して彼女は咳払いをした。
「皆さんとお酒でも召し上がられたらどうですか? 静かに書き物の音を聞いているだけだと気が滅入りますよ」
「いいよ」
ケビールは相変わらず暗い寝台の上で寝そべっているだけのようだ。アブヤドの村で働きまわっていた様子からは想像もつかない。もしかすると彼は自分の生まれ育った村から遠く離れて憂鬱な気持ちにさせられているのかもしれなかった。それを言ってくれないのは、ソラを信頼していないと言われているようで気分が悪い。
「ソラちゃんさぁ」
ケビールはソラの言葉に気分を害したのか、語気をわずかに荒げた。
「まだ自分が男からどんな目で見られてるのか本当に理解してないわけ?」
そのくらいのことはソラだって一年間で十分思い知った。年頃の女には男が鈴なりに寄ってくる。そして自分のところには多分普通より多くの男がぶら下がっている。それだけだ。求婚されれば断ればいい。一年前と違って今は婚約者がちゃんといるのだから、相手だって説明すれば引いてくれるはずだ。
「ちゃんと分かっていますよ。ですが今は調査員の立場で私の身元保証人はあなたかメフシィさんになっています。旅の仲間ですからお話をさせていただくことはありますが、求婚などがあれば必ずあなた方二人に言っていただくようにします。この調査団はムルシド殿下を旗印に作られたものですから、ミガルティの法が適用されるはずです」
このことは出発前によく話し合ったことだ。わざわざ彼が蒸し返してくる理由が理解できない。南東大陸出身者以外の人間が半数を占めることで一定の規範を設けなければならなくなったが、メフシィ商会の方からミガルティ側に合わせると申告があったのだ。たしかにケビールはセメク出身であるし、恋愛ごとに関しては自主性を問われていたので違和感があるだろうが、皇子の取り決めた規則にわざわざ逆らう人間がいるとは思えなかった。
「はー……ほんっとにお姫様」
「どういう意味ですか」
呆れかえった言葉に馬鹿にする意図を感じ取ってソラは衝立の向こうを覗く。
「私の言動であなたを不愉快にさせている件に関しては謝罪します。ですが、護衛の任があなたの手に余って、そのことで喧嘩をしなければならないようでしたら別の方を私の護衛にしていただきます」
「護衛に関しては文句ないって! それに部屋には不満だけど傍にいたいんだからあれこれ言わないで欲しいんだけど」
「何かと仰ったのはあなたでしょう?」
意図せず口調が激しくなる。ソラとて今すぐこんな意味のない喧嘩は止めたかったが、上手く話を纏めてくれる人がいない。情けなくて涙が目じりに浮かんだが、それをケビールに悟られるのは癪に障った。
こんなに誰かと口論するのは、生まれて初めてのことだった。彼が慣れている様子なのも気に食わなかった。
「てか、暗くて寒いところが嫌いなのはソラちゃんだろ。俺は平気だからもう気にしないでよ」
痛いところを突かれてソラは黙り込んだ。そんなこと、彼に一度だって言ったことはなかった。こうして衝立に挟まれて眠るようになって二日目、一体彼はどうやってソラの記憶の一番辛く悲しいことを知ったのだろうか。
ソラはケビールに縋りつきたくて手を伸ばしたが、すぐに下ろした。流石に癪だと思ったからだ。
その時、部屋の扉を誰かが叩いた。返事をする前に飛び込んできた影は小柄で、すぐにサーシャだと知れた。サーシャは呼吸が荒く、何度も鼻水を啜っては雪のついた上着で顔を拭っていた。慌てたソラが手巾で彼女の顔を拭いてやる。
「どうしたんですか?」
「お母さんが、お父さんが」
「何かありましたか?」
サーシャはメフシィが家まで送り届け挨拶をする予定だったが、急遽一人で帰ることになっていた。帰ってこなければそれでよし、帰ってくれば調査団の一員として働いてもらう手筈になっていたのだが、どうにも様子がおかしい。
サーシャは大粒の涙をこぼしながらソラに抱き着いて離れない。頭一つ分小さな子供に抱き着かれているというのに、ソラは身動き一つ取れずにいた。
「もっとお金、出せって。メフシィ様が持たせてくれたお金、これっぽっち、って」
メフシィがサーシャに持たせたのは、彼女がメフシィの元で働いていた間の給料に多少色をつけたものだった。全て銀貨と銅貨で持たされていたが、金貨一枚に及ぶ大金だった。それをサーシャが家族に渡すだろうことは、調査団の誰もが予感していた。
「これじゃ冬、皆死ぬ、出ていけって! もう、家には戻らない! もう、嫌!!」
サーシャの言葉の端々に、彼女の家が困窮しているということがにじみ出ていた。そうだとしても気分の良い話ではない。たった十歳の女の子が働きながら大陸を渡って家に帰ったとは思えない仕打ちだ。
ソラは胸が締め付けられる思いで彼女を抱きしめた。
十年会っていなかった母親でさえ、再会を喜んでくれた。再婚をしていない寡婦では娘を嫁にやる資金も用意できなかっただろうに、それでも喜んでくれた。
「なんと言えばいいか……そんな……」
あの時心の底から再会を喜ばなかった自分を遠回しに責められているような感覚に陥り、ソラはそれ以上の言葉を続けられなかった。
「じゃあさ、俺たちを兄弟みたいに思えばいいよ。ソラちゃんがアレキサンドラの姉さんだ。俺たちもお前がいてくれると心強いしさ」
相変わらずセメク訛りだが、随分と上達したミガルティ語で彼はサーシャに声をかける。当然のようにソラの翼に手を伸ばしてくれる。喧嘩をして気まずい気持ちが残るソラがケビールを見ると、彼は優しく翼を撫でつけてくれた。
「ありがとう」
サーシャはそう言うと、声を上げて泣き出した。こんなに健気で優しい子がこんな風に傷つけられて良いはずがないと、ソラはたまらなくなって彼女を抱きしめた。




