64話
「やぁ待っていましたよ! 自室に御婦人を招くなど申し訳ないことですが、なにぶんアャースクには別荘などを持っておりませんので。さ、入ってください。ケビールさんをお呼びでないということは、例の商品の件でしょう?」
どうやらソラが二人で会いたいと頼んだことをメフシィは勘違いしてしまったらしい。アャースクに踏み入れて五日目の夕刻、彼はソラを自室へ招いた。公共の場所では困ると言ったソラに困った顔をしていたメフシィだったが、すぐに商売人の顔をしたのはソラの花嫁衣裳のための材料を彼に依頼することになっているからだ。
ソラは扉を閉めて、勧められるままに席に着いた。部屋に据え置きの小さな机には温かい茶が準備されており、言われるままにソラはそれを飲む。飲んだことのない華やかな香りがした。
「良い香りですね」
「お気に召したようで良かった。さてさて、意匠は? それとも布地から決めますか?」
機嫌が絶好調のメフシィには申し訳ないことだが、今日は花嫁衣裳の話をしにきたのではない。部屋に置かれた暖房器具の温かさをありがたく思いながらも、ソラは話を切り出すことにした。
「ごめんなさい、今日は花嫁衣裳の話ではないんです」
「と、仰られると?」
今回の調査の第一人者はソラだが、旅の第一人者はメフシィだ。その上、メフシィはサーシャの正式な雇い主だ。彼が是とすれば少なくとも次にミガルティの土を踏むまではサーシャは旅に同行できる。この件についてケビールはソリの中で聞いていたはずだが、何も言ってこなかった。少なくともケビールが口を出す問題ではないと考えたのだろう。
「サーシャが、この先も同行したいと言っています。家が貧しく、家にいられないと」
その言葉にメフシィは目を丸くする。それからすぐに、恥じ入るように視線を落とした。
「そうでしたか……。まだ十だというのに、そんなことを。私はまだ十歳の女の子が可哀相だと、家に送っていくことしか考えていませんでした。恥ずかしいことです」
「メフシィさんのせいではありません。どうか、お気に病まないでください。私も、彼女を家に帰しさえすれば幸せに暮らせるものだとばかり思っていましたから」
誰もが十歳のやせっぽっちの可哀相な奴隷が、家族のために家を出ると言うとは想像だにしていなかった。今回の彼女の主張は完全に想定外の出来事だ。
「この先、同行者が一人増えても問題はありませんか」
ソラの言葉にメフシィが片眉を上げる。
「意外です。あなたは反対なさるかと」
「彼女の人生は彼女のものです。途中体調を崩したり特別な支援が必要であれば、また意見を変えなければなりませんが」
調査に問題がないのであれば付いてきても良いだろう、とソラは判断した。結婚の準備が始まりかける年ごろではあるので、それだけが気がかりだが、それはソラが決めることではない。今回の旅に女性は二人だけだ。まだ年若い彼女に多少のお節介はしたい気持ちはあるが、ソラとて結婚を先延ばしにしている身だ、あまり口出しできる立場ではない。
「もちろん、サーシャを購入したメフシィさんが決めることだとは存じます。ですが、送り届けた後は彼女かご両親の判断にお任せになるおつもりでしょう?」
「もちろんです。ですが……」
メフシィは悩んでいる様子だ。なにせ彼は見た目から推察するに四十を超えているように見える。下手をすればサーシャは孫くらいの年齢だ。心配してしまうのも無理はないだろう。婆様もケビールのことは折に触れて心配してくれていたし、二人が婚約の報告をした際には結婚の日取りを決めてくれた。
メフシィは立派な口ひげを少し撫でつけて、やはり結論に自信が持てないのか眉間に寄せた皺を伸ばしている。
「いや、他人の人生を決めるのは性に合いません。狼人は我々よりも体が強いです、むしろ頼りになるでしょう。その代わり、乗務員として十分な仕事をしてもらうことと、ムルシド殿下の使者としては扱わないこと。この二点をご了承ください」
最大限以上の提案をされてソラは思わず飛び上がった。すぐにムルシドへの連絡を依頼されると思っていたが、彼はサーシャの保護者として勤めてくれるつもりのようだ。
彼は商人として今までやってこられたことが不思議なくらいに人が良すぎる。そして、それに頼ってしまう自分の浅ましさにソラはうんざりした。
「メフシィさんには頭が上がりません。甘えてしまって申し訳ないです」
思わず礼をするソラに、メフシィは笑顔を向けてくれた。
「いいえ、あなたに気に入られたい男が勝手に気を回しているだけです。どうかお気になさらないでください」
メフシィの優しい笑顔にソラは安心感を覚えた。故郷ではさぞや立派な家に生まれ、あるべき立派な姿になるべく教育されたのだろう。メフシィの表情からは、そういった努力がにじみ出ていた。
「夜分に失礼いたしました。サーシャの件、よろしくお願いいたします」
ソラはメフシィに深々と頭を下げると、部屋を後にする。もう夜も更けてきた。すぐに自室へ戻ってサーシャにメフシィが了承した旨を伝えるべきだ。それでも足が向かったのは、もしかしたら仲間たちと酒場へ向かっているかもしれないケビールの部屋だった。
部屋の外から彼の名を呼ぶと、ケビールは少しだけ扉を開いて顔を覗かせ、すぐに部屋から出てきた。
「……どうしたの? メフシィさんにダメだって言われた?」
「いいえ。快諾していただきました」
「じゃあ、アレキサンドラ連れてくのは困る?」
「いいえ」
きっとソラはひどい顔をしているのだろう。ケビールが心配そうな顔をしている。
この次の言葉をケビールに推測させるのは、流石に彼に甘えすぎだろう。纏まらない考えを吐き出したくて、ソラは深呼吸をした。
ソラはサーシャがこの先の調査に同行することについて、彼女の未来を心配することはあっても、迷惑になるかもしれないと考えたことはない。自身も初めての旅のため、そこまで考えが及ばないというのも理由の一つだ。ただ、男性ばかりの旅の中、一人でも女性がいると心強い。
彼女を助けようとして大市場で騒ぎを起こしてからというもの、ソラの胸の中には澱のようなものが溜まっていた。それは、市井の人々のように見て見ぬ振りが出来ぬ自分の堪え性のなさに対してもそうであったし、かつて王太子の鷹であり、主人のために出来ることを探していたはずが結果としてカプラ側に必要以上に損害を負わせた責任を感じてのものもある。
結局のところ、何かしたいと右往左往してみたが、どれも人に迷惑をかけてばかりだったことが一番堪えていた。
「何もしなくていいと言ってください。もう私はただの女で、あなたの妻としての役割も全うできない役立たずで、あの方の役に立ちたいと考えることすら烏滸がましいと叱ってください。でないとどうにかなりそうで」
ソラは無意識にケビールに縋りついていた。本来であればこうやって頼むことが卑怯なことを、この一年をかけてしっかり学んだはずだ。こんな風に自分が男性に縋れば、多くが彼女を許容し、言いなりになってしまう。それで何人もの男性を勘違いさせ、求婚までさせてしまった。
それでもケビールにだけはそうして甘えたかった。婚前の娘のすることではないと、ソラが甘えるたび諫めてくれたラヒムはもう二度と会うことも叶わないのだから。
「それさ、俺にだけは言わせちゃだめだよ」
彼らしからぬ静かな声で言い含められ、ソラは顔を上げた。ケビールが泣きそうな顔で微笑んでいる。そんな顔を、彼は一体どこで覚えたのだろうか。
「そんなこと、俺以外の全員が言ってくれるよ。もういいよ、とか、早く結婚式挙げなよとか、色んな風にさ。でもそれ言っちゃったらさ、ソラちゃんにフラれた上に俺にぶっ殺されたアイツなんて犬死になっちゃうけどいいの? 俺は無駄な殺しをしたのか?」
それを聞いてソラは心臓が凍り付く気がした。
今、自分は恐ろしいことを自覚なくケビールに言わせようとした。あなたの戦果はただの殺人でした、あれは全く意味のない戦でした、と言ったも同然だ。ケビールとて自分たちの住む場所を守るためでなければ、人を殺しに行くことなどしなかったはずだ。それなのに、それをなかったことにしようとした。
「……結婚してもいいくらい好きだったのに、それ投げ打ってまでソラちゃんがしたかったことってさ、結局何?」
きっと彼が世界で一番言いたくないことを、ソラは今言わせている。
ソラは耳を塞ぎたくなったが、それすら緊張でできない。ケビールの黒々とした双眸が、ソラをじっと見下ろしている。
「自分が選んだことから逃げんなよ」
冷え切った目が恐ろしかったが、そういう強い言葉でソラの背を押してくれているのだろう。王宮で躾けられた風にするのであれば、きっとゆったりと礼で返事をするところだ。だが、それを今のケビールにするのは失礼に思われた。
ソラはケビールから手を放し、じっと彼を見上げる。惨めさから縮こまらせていた背をしっかりと伸ばして、自分自身を奮い立たせることがどれほど恐ろしいことか。
「ありがとうございます。おかげで目が覚めました」
ケビールは呆気にとられた顔をしたが、すぐさまいたずらっぽく笑った。
「その顔が見たかったよ、俺のお姫様」
また馬鹿なことを仰って、と叱るソラをケビールは愛しそうに見下ろしていた。出会った頃から一年、随分と彼の背は伸びたようだった。




