52話
ソラは巻物を読んでいた。どうやら詩で綴られたものらしく、呼歌がその中にいくつも書かれていた。物語仕立てになっており、登場するのは大まかに空の精霊とその子である風の精霊、風の精霊に翼を授かった人々、それから乙女だ。表紙を見れば『自然教教典 空の精霊 風雲部』と書かれている。
乙女が願うと精霊は空と風の及ぶ範囲のことをしてくれる。雨を降らせ、大雨を止め、人々に空を飛ぶ喜びを与える。前半はそんな良くある内容だ。金糸雀の籠でよく本を読んでいたソラはなんとなく話の続きに予想がつき嫌な予感がしたが、最後まで読むことを余儀なくされる。それ以外に彼女がムルシドの庇護下に置かれる理由がないためだ。
人智の及ばぬ存在に代償なしに願いを叶えてもらうなど、どだい無理な話だ。ましてそれが特定の人物に与えられるものであればなおさら。
最初は手のひらいっぱいの雨に喜んでいた村人たちが、乙女に願うようになる。
曰く、宝石に加護を与えて欲しい。精霊は喜んで叶えた。
曰く、弓矢で狩りを成功させたい。精霊は祭壇に生贄を捧げさせ、願いを叶えた。
曰く、戦いで守ってほしい。精霊は乙女の歌声を要求した。乙女は歌い続けた。
曰く、精霊の力が欲しい。
とうとう精霊は乙女を欲した。彼女を自分のために歌い続けさせたかった。彼女は何度も歌を歌い続け、朝日が昇り、月が沈むまで繰り返した。精霊は乙女の体を依り代にして、力を村人に与えた。乙女は精霊となり、村人たちは彼女を奉った。
乙女は村人たちの願いを断ることをしなかった。これは献身だ、という内容だ。馬鹿馬鹿しい話だが手放しに罵倒できない不快さがある。ソラだって乙女と同じようなことをした。もし、彼女が実在したとしたらきっとソラのような女だったに違いない。人の意見をそのまま飲み込み、考えているつもりで結局利用されるだけの無知な女。
ウルファに聞いた時、既にこの中にある話も全て詩の形式ではなく言い伝えに変わっていた。まさかその元が教典だったとは予想もしなかった。
読み切ったら鳴らせ、と言われていた鈴を鳴らすと、しばらくしてムルシドと黒髪の鳥人族が部屋に入ってきた。鳥人族は小柄な女で、ソラよりも二つ三つ年上のようだ。南東大陸では珍しい象牙色の肌をしており、大きな紫水晶と銀細工の飾りを至る所に着けていた。ムルシドの金糸雀なのだろう、一目見ただけで納得させられる大粒の黒真珠のような瞳が印象的だ。翼まで漆黒で、白い肌との対比が美しい。
「はは、すまんな。金糸雀との散歩中だったのでな。これが余の金糸雀、ライラだ。美しいだろう? ライラ、これがユルクのところから逃げてきた鷹だ」
「初めまして、ライラ様」
椅子から立ち上がったソラは、ゆっくり礼をした。目が覚めて三日、まだ思うように体が動かない部分があるが注意深く動けば以前と変わりなく動くことができた。ライラはソラを頭のてっぺんからつま先までじっと見ている。
彼女はソラの前へ出ると、顔を見上げて笑った。
「誘拐されたね。私が前に立ったらちょっと身構えた。叩かれて躾けられた時期があった。違う?」
明察だ。
ライラはソラの指を握ったり、背中をとんとんと叩きながら体の周りをぐるりと一周した。そんなことをして何になるのかとは聞けない雰囲気だ。どうやら占いの類もするらしい。手のひらや目までよく観察される。
「……あら、可哀相に。びっくりするくらい運が強い。早いとこ自分のするべきこと見つけないと。逃げただけではいおしまいに出来ないのは豪運が裏目に出た。逆に一番まともな男を捕まえたのは運の良さだ。じゃなかったらアンタとうに死んでるよ」
「ライラは占いの腕が良い。信頼するが良い」
あまり知りたくなかった自分の運勢を聞かされて、ソラはライラから顔をそらせた。これ以上詳らかにされるのはごめんだ。
ソラは巻物をムルシドに手渡した。
「うむ、ではお主に『精霊降ろし』のことを教えてやろう」
そう言いながら彼は二人に椅子を勧めた。言われるままにソラは椅子に、ライラは長椅子に腰かけたムルシドの膝に座り込む。ムルシドはうっとりと自分の金糸雀を見たがすぐ脇に降ろし、額に口付けることで文句を封殺した。
「『精霊降ろし』ですか」
聞き覚えのない言葉だ。恐らくケビールも知らないだろう。知っていたらきっと目が覚めた時に教えてくれたはずだ。
ムルシドは頷いた。
「うむ。山脈のこちら側の鳥人族の村に残った話でな、雨乞乙女でも戦乙女でも呼歌を繰り返し使うと、教典の乙女と同じように心神喪失状態になるという。これが『精霊降ろし』だ。男が何度歌おうが同じことにはならん。必ず力の強い乙女だ。仮に腹に子がいれば流れるとも言われているな。だから当然これは全て男が口伝し、雨乞乙女においても戦乙女においても重ね掛けは禁じられておる」
そういえば、セメクの国営族長はこのことについて言及しなかったが、鳥人族の村長は「何度も歌うな」と言っていた。これはそのことを伏せてソラに指示をしていたのか、それともおぼろげにしか伝わっていないためか。先の大戦であまりに多くの戦死者が出た。その後の疫病での犠牲を合わせればかなりの人数が死んだ。正しく伝わらなかった可能性もある。
「呼歌、というのは古くは『精霊呼びの歌』と呼ばれていたとも聞く。元々、精霊降ろしをするための歌だったのではないか、というのが余の考えだ。鳥人族に伝わるのはこれだけだが、他の種族のことを調べればもう少し分かることがあるやもしれん。ただ、領主という立場上そう長い間他国に滞在は許されん。あまり遠いところも難しい」
ムルシドはわざとらしく嘆いた。
「ああ、どこかにおるとは思うんだがなぁ。この余の崇高な研究を理解してくれる、鳥人族に興味のある者がおればなぁ!」
ライラはこの手の研究には全く興味がないようで、自分の鉤爪を眺めている。しっかりやすりにかけられた鉤爪は緩やかな曲線といい艶といい素晴らしいものだ。
ソラも自分がなぜああなってしまったのか興味がある。魚人族の村へ戻りたい気持ちはあるが、ムルシドの手前言いにくい。ましてセメクが負けていれば、戻ったところで命の拾い損だ。ケビールは王太子に刃を向けた大罪人として、ソラは主人の元から逃げ出しただけではなく牙を剥いた奴隷として仲良く処刑台まっしぐら間違いなしだ。
「……ケビールさんと話をさせてください」
「駆け落ちではないと言っていたではないか」
「でも、結婚の約束をしました」
ソラはもう三日間もケビールに会えていなかった。部屋の護衛は場所を教えてくれなかったし、ケビールから訪ねてくることもなかったからだ。
「やめときな」
冷たい声でライラが言った。
「『精霊降ろし』しかけたんでしょ? 子が成せるか分からないよ。あの男、もう下働きの女官が狙ってる。アンタが身を引いても困ったりしないよ」
「……子が成せなくなるかもしれないという話は、二人とも知っています。だから、話だけでもさせてください」
身を引いてもいいだろう。だがそれは誰かに決められることではなく、自分たちで決めることだ。子が成せなくなってもケビールは気にしないと言ってくれた。
そうまでしてくれた彼に命の危機が及ばなくなった今、これからのことは二人で相談したかった。いつも自分だけで完結させようとするソラを叱ってくれたのはケビールだった。
「この仕事、必ず受けなければならないと仰るのであればそういたします。ですが、その前に話をさせてください。どうか」
深々と頭を下げたソラに、ライラは笑った。
「お熱いこと。いいわね」




