表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
宵闇に灯火の唄を  作者: 野木 千里
第二章
54/142

49話

 重く苦しい泥の中で長らくもがいている感覚だった。このままでは自分は死ぬだろうという自覚があった。体中が切り刻まれ、腸をかき混ぜられるような激痛、肺を焼かれるような息苦しさ。

 自分の使命、生き様、後悔、何もかも考える余裕もなかった。

 ただ、今から産声を上げる赤子のように、強烈な生存欲求だけがそこにあった。




 ソラが目を覚ましたのは、柔らかい布団の中だった。まだ自分の今日の衣類を持ってくる女官は部屋には来ていないのか、と起き上がろうとして、自分の体が動かないことに気が付いた。

 慣れ親しんだ絹の布団だが、天井は見知らぬものだ。

 そこでようやく夢見心地が解け、彼女は涙を溢した。

 それは生き延びた安堵からか、恐ろしいものを見た恐怖からか。それとも。

 声を上げて泣く余力はなかった。息をするだけで精いっぱいだったのだから。体の節々が痛み、乾いて仕方がなかった。それなのに涙だけは溢れて止まらない。ラヒムが銛で貫かれる瞬間の様子が脳裏に焼き付いていたからだ。

 泣きわめき暴れたくて仕方がなかったが、衰弱した体ではそれもできない。もういっそ自分も死んでしまいたかったが、呼吸を止めることもできなかった。

 ソラは彼に並々ならぬ情を抱いていた。ずっと、王太子に共に仕える者としての信頼と、結婚を申し出てくれたことに対する感謝がそうさせているのだと信じていた。

 もっと早くに気付けたはずだった。彼が結婚を申し出てくれたとき、何日も部屋に通ってくれたとき、綺麗だと褒めてくれたとき。

 ソラは自分の唇に触れた。初めての口付のとき頬を染めたのは、恋心からだった。自分の感情に気が付いていたのに、主人のためにと言い訳をして気持ちに蓋をしてしまった。彼があんなにも真っ直ぐにソラに好意を向けてくれていたのに、素直になれなかった。彼に対して何と不誠実だったことか。

 最後、彼に向ける言葉は主人の王道を願うものであってはならなかった。

 気持ちを返せないことへ対する謝罪であるべきだった。

 だがもうそれもできない。母のように墓標に泣き縋ったところで、彼と二度と会うことは叶わないのだから。その事実がソラの胸をじくじくと痛ませる。

「……ソラちゃん」

 ケビールの声が聞こえ、ソラは徐にそちらを見やった。

 彼は隣の寝台に寝かされており、ソラが目を覚ましたことを確認すると半身を労るようにゆっくりと起き上がった。

「ケビールさん、あなた」

 彼の左腕は痛々しいほどの量の包帯に包まれていて、添え木がされている。最後に彼を見たとき、多少の切り傷や擦り傷はあったものの、これほど大きな傷はなかった。ソラを庇うために負ったことは間違いないだろう。

 ソラが不安げな顔で見ているのに気づいて、ケビールがいつもの調子で笑う。

「大丈夫、すぐ治るって。俺昔から傷の治りが早いんだ。一昨日の昼に目が覚めてさ、腹が空くのなんのって。目が覚めたばっかりなのに食べ過ぎだって怒られちゃったよ。そうだ、ソラちゃんも何か食べたほうがいい。俺、ちょっと貰ってくる――」

「ここにいてください」

 ケビールが食べ過ぎて怒られたというのは嘘だろう。痩せてしまい、やつれている様子を見る限り、あまり食べられていないはずだ。

「今、一人は嫌なんです」

 ケビールは唇を噛んで涙を堪え、天井を眺めてははは、とわざとらしく笑った。

「ソラちゃんは甘えただなぁ。仕方ないから傍にいてやるよ」

 五日も寝てたんだから食べ物は入らないだろ、と言って彼は自分の寝台の脇に置いてあった果実水を杯に移して座らせたソラに握らせる。飲ませてもらった果実水は甘さを感じず、ソラは自分がどれほど消耗していたのか知った。

 ケビールに手伝ってもらいながらようやく二杯ほど飲んだところでほっと息をつけば、ケビールが涙を湛えた目でソラを見ていた。

 彼はソラの首に無事な方の腕をかけて抱き寄せ、その肩口に顔をうずめた。人肌の温かさに心が落ち着いたソラは、彼の耳元に小さな声で問いかける。

「ケビールさん、ここはどこですか」

「ミガルティ帝国内のサヒル三国……今はサヒル地方って呼ぶんだっけ? とりあえずそこ」

 サヒルと聞いてソラは驚いた。サヒル地方と言えば、北大陸との玄関口だ。ソラたちが従軍していたアイハンの岩塩採掘場から、大陸の真ん中に走っている大山脈地帯を通過して丁度反対側の海辺の地域だ。荷鳥にどりで休まず行っても大体三月、馬を使えばその倍以上かかる。

 先ほどケビールが言った通り、あの戦いから五日しか経過していないのだとしたら、そんなに短時間でそちらまで行ける道理がなかった。

「一体どうやって……?」

「ソラちゃんの力でここまで飛んだんだ。生きてるだけでもありがたいよ、本当に」

 彼は一体何を見たのか、少し怯えているようだった。だが、ソラは敢えて聞こうとは思わない。どちらにせよ御力で瞬く間に大山脈を越えたのだとしたら、一人でその人智の及ばぬ状況を味わったケビールの恐怖は想像を絶するものだっただろうから。

「目が覚めたら領主様が来るって言ってた。本当はソラちゃん抱えて逃げ出したいけど、ちょっと難しそう。カプラ王国からの捜索依頼が周辺国に出てたはずだから、つもりだけしておいて。あと、これ」

 そう言ってケビールはソラに何かを握らせてからどっかりと床に座り込んだ。先に目が覚めていたとは言っていたが、やはり体が辛いのだろう。握らされたものは翠玉と月長石の髪飾りだった。見たくもないと言っていたのに預かってくれていたらしい。その優しさが身に染みる。

ソラも座っているのが辛くなり、寝台に身を横たえた。どの道捜索依頼が出されているのであれば部屋から出ることは出来ない。逃げ出すことは難しいだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ