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宵闇に灯火の唄を  作者: 野木 千里
第二章
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春の雷

 春の雷という言葉をどこかで習ったのを彼は思い出していた。

 彼の名はムットゥル・ハムザ。栄えあるカプラ王国の庭家ていかという大変恵まれた出自ではあるが、上には上がおり、現在彼の上司は十五歳の少年だった。ハムザの本家筋はエスキルという国を代表する六つの家の一つだが、もう分家になってからどのくらい経つのか分からないくらいで、いつ自由民に格下げになるのかさえ分からない身分ではある。ついでに名字の最初に当該の家名を名乗ることはすでに許されなくなった、要は本家相続権のないうだつの上がらない庭家に産まれた。

 彼の上司である少年は、サグエル・ビルダグ・ラヒムという。彼は分家出身である証明にサグエルという名の後に実際の彼の生家の名を名乗ることになっている。だが彼は運の良いことに女家系に産まれた上、相続権のあった男が不祥事を犯したおかげで本家の相続権のお鉢が回ってくるらしい。実に羨ましい話だ。そんな彼にも可哀想なことがあり、昨年婚約者が盗賊に襲われて結婚式が立ち消えになっている。

 話を戻そう。うだつの上がらない男ことハムザは現在三十七歳である。この年齢でこの出自で兵隊長に収まっており、これ以上の出世は望めそうになかった。結婚して大して経たないうちに妻にも先立たれ、寂しい独身生活を余儀なくされていた。

 そんな彼の目の前には、美しい女が一人立っていた。黒々とした豊かな髪、まるで空から月でも拝借してきたかのように魅惑的に輝く瞳。ハムザは彼女を見た瞬間、落雷に打たれた気分になった。ただ仕事で浪費していただけの時間は止まり、色褪せた世界が鮮やかに色づくほどの衝撃。まさに彼は今、春の喜びに満ち溢れていた。

 だが女はただの女ではなかった。背には大きな茶の翼が生えており、手足の先は鉤爪状に変化している鳥人族だ。おまけに前述の上司の婚約者の母親ときたものだ。盗賊に襲われた後、鷹が鳥人族保護区に来たのはいつか、今はどこで暮らしているのか、等々、聞かなければならないことは山程あったのだが、そんなことなど全て忘れるほどの美人だ。そんな美女が鈴の鳴るような声で笑うのだから、ハムザはもう夢見心地で彼女の話を一方的に聞くだけの人形として転職を果たしてしまった。

「ごめんなさいね、本当はあの子が来たときにお知らせしないといけないと思っていたの」

「はい」

「でも、沢山会いたくて言い出せなかったの。許してくださいね?」

「はい」

「今回はちゃんとあの子が王子様のところに帰れるように、皆と一緒に行きます。……あの、ごめんなさいね?」

「ぜ、全然! その、お母様のお気持ち、大変よく分かりましたッッ」

 ハムザはその視線に晒されるだけで、その声を聞くだけで骨抜きにされていた。この後彼はこの女性を連れて山側から海辺まで大移動をしなくてはいけない。このままでは先が思いやられるが、彼の上司はやや呆れたように溜息を吐いたものの、自分にも思い当たる節があったのか何も言わずにいてくれた。

「事情は分かりました。チチェクさんはソラが戻ってきたら一足早くサグエルにお戻りください。俺との結婚式を仕切り直す予定ですので。確かにお義母様からすれば、一時でも娘と長くいたいと思われて当然です。婚姻後はできるだけ連絡を取り合えるよう取り計らいましょう。連絡が遅れた件につきましては、今回に限り目を瞑ります」

 ラヒムがそう言って話を終わらせると、チチェクはほっと息を吐いた。ついでに兵隊長も息を吐いた。この美しい女性が処罰を受けると考えただけで可哀想で申し訳なくなる。

「あの、ラヒムさん? 私達は行ってしまいますけれど、その、家に暖かい羹を用意してあるんです。麺麭と果物も置いてありますから、遠慮なく食べてくださいね」

「ありがとうございます。ありがたくいただきますね」

 多分上司は口をつけないことをハムザは知っているが、言ってチチェクを悲しませたくなかったので口を閉じていた。そして、一足先に向かった仲間たちを追いかけるため、荷鳥に乗って隣村へ向かうことになった。




 鳥人族保護区を発ってしばらく経った頃、チチェクが突然後ろを振り向いてハムザに向かって縋りついてきた。ハムザは振り返ったチチェクの愛らしさに目眩がして意識と手綱を手放しそうになったが、なんとか持ちこたえた。彼は荷鳥の騎乗にかけては隊の中で一番のため墜落は免れたが、これがただの兵士であったなら今頃地面を抱いていたことだろう。

「ごめんなさい、やっぱり戻ってくださる?」

 それでも花が匂い立つような可愛らしい声で頼まれては、怒る気もなくなる。

 ハムザは手綱をしっかり握ったまま言った。

「ごめんなさい、しばらく戻れないんです」

「それでも、お願いよ。ソラは明日の朝に来るの。あの人と結婚したら滅多に会えなくなるんでしょう? 岩陰から一目でいい、あの子を見たいの。少しだけよ。ね、それからはちゃんと兵隊長さんの言うことを聞くわ」

 道すがら、彼女は自分が三十二歳であることと、もう十年も前に寡婦になったことを教えてくれた。間違いなくそのせいで兵隊長の心は揺るがされていた。

 自分と五つしか変わらない寡婦に、同じく伴侶に先立たれた自分も何かしてあげたい。あわよくば、仲良くなりたい、と。きっと先立った妻や息子も許してくれるに違いない。

「……二人だけの秘密ですよ」

 ハムザが荷鳥の向きを変えると、チチェクはその可愛らしい顔一杯に笑顔を浮かべた。月光が照らす表情でさえ身震いするほど美しかった。

「ありがとう、本当にありがとう、兵隊長さん! このことは忘れないわ!」

「ハムザ、と呼んでください。これは任務の外の話ですから」

 そう言えばチチェクは鈴を転がすように軽やかな笑い声を上げて、またお礼を言ってくれた。

 二人は保護区に戻り、村の端の岩陰で一夜を明かすことになった。チチェクが服の中に忍ばせていた麺麭とハムザが懐にいつもしまっている葡萄酒を分け合い、ハムザの外套を借りたチチェクはその中で眠った。やがて月が上がっても、村のどこからも煙は上がらず、羹は温められないまま塵となったのだろうことをハムザは気づいたが言わなかった。チチェクが嬉しそうに「母に習った自慢の羹なの、私が二十歳になる前に亡くなっちゃったけど、本当に料理が上手だったの」と話してくれたからである。




 翌朝、日も登らないうちからチチェクは空を眺めていた。雨乞乙女として鷹がこの地に降り立つのを待っている。眠い目を擦りながら起きたハムザは、チチェクの背に外套をかけてやった。

「私、朝は嫌いよ」

 今にも泣きそうな顔でチチェクが言う。

「ソラがいないって分かったのも、夫が行ってしまったのも、朝だったの。あの子が履いてた草履が朝日に照らされて、馬車の轍だけが残ってた。今でも夢に見るわ」

 ハムザはチチェクの翼をそっと撫でた。本当は背を擦ってやりたかったが、翼が大きくてどこを擦ればいいののか分からなかった。チチェクは昨日とは打って変わって悲しそうな顔をしており、視線を逸らすことなく空を見ている。視線の先には人を乗せた荷鳥の姿があった。

 チチェクはもう行こうとは言わなかった。一目だけという約束であったが、チチェクは荷鳥が保護区に降り立ったであろう後も朝焼けに染まる街を眺めているだけだ。ハムザは朝日に照らされたチチェクの横顔を見て、その目尻に浮かぶ真珠のような涙に手を伸ばし拭ってやりたいという衝動と、自分がこの美しいものに触れていいのかという葛藤の中でせめぎ合っていた。

「泣いていいよ」

「飛んでくるソラが見えなくなるじゃない。嫌よ」

 彼女は立ち上がった。目に浮かんだ涙を邪魔だと言いたげに乱暴に拭う。

 以前王宮で鷹を見かけた時、同じ泣き方をしていたのをハムザは思い出す。あの時鷹は舞踊の講師に物凄くきつく怒られており、それが好みの問題だったものだから譲らず目に涙をためていた。大声で泣き出すのかと思い足を止めれば、講師が先に音を上げて部屋から出ていき、鷹は乱暴に涙を拭った後また練習に励んでいた。

 あの気の強さは母親譲りかもしれない、と思いハムザは頬を緩めた。

 地面に落ちていく涙をハムザは呆然と眺めた。乾いた赤い土に浮かんだ一点の染みでさえ美しいと思った。

「ソラ、ソラ……」

 突然娘の名を口走るチチェクをハムザが見ると、彼女はその甘やかな声で呟いた。

「風の精霊よ

 娘の背にその息吹を」

 別れの挨拶だろうか。チチェクの声は娘との別れを惜しむような切ない響きを伴っていた。ハムザがはっとして空を見上げると、人の影と荷鳥の影が見える。なんと保護区から遠ざかっていく。

 その時だ。一迅の風が吹き、砂を巻き上げて砂嵐を起こした。村の方を見ると、上司が忌々しそうに砂嵐の向こう側を睨みつけている。上司にこの場を見られると流石にまずいと思いチチェクを連れ出そうとそちらを見れば、彼女は満足げに笑っていた。

 兵隊長は一も二もなく自分の荷鳥にチチェクを乗せた。早く戻らないと上司に見つかってしまう。あの少年にくどくどと正論で怒られるのは御免被りたかった。

 若い人間は正論をかざせば済むと思っていて腹立たしい。大人は正論では片付かないほど拗れて言い出せないことだってあるのだ。

 そんな文句を胸の内で言いながらも、彼は腕の中に感じるチチェクのぬくもりを確かめながら雷のような速さで空をかけた。何しろ怒られるのはやっぱり嫌だったからだ。それにしてもいい匂いだなぁ。

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