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宵闇に灯火の唄を  作者: 野木 千里
第二章
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39話

「最近機嫌いいね、何かあったの?」

 荷鳥を操るケビールに聞かれて、ソラは婚約者の顔を見るべく振り返った。

 ナダの結婚式以来、いいこと尽くしだ。村の女の子たちと話す機会も増えたし、皆で輪になって花嫁衣裳を縫うのは気分が良かった。セメクの歌も聞くうちにいくらか覚えて、皆で順番に歌いながら縫うというのも楽しかった。

 そして、蓮から足を垂らしていた女の子が、気に食わない相手が来た途端に足を上げて求婚のやり取りを済ませたことは興味深かった。ソラは川を覗いただけでケビールに引きずり込まれたのだ。女の子たちにそのことを話すと、信じられない、と皆驚いていた。

「村の女の子たちと話すようになったんです」

「へぇ。イスハークの結婚式から?」

「ええ、なれそめを沢山聞かれました。初めてお会いした時、川に引きずり込まれたと言ったら皆さん驚かれていました」

 ケビールが顔色を変えた。やはり川に引きずり込んだことはあまり褒められたことではないらしい。おかしくてソラが笑うと、ケビールが肩口に顔を埋めてくる。言い訳は沢山あるようだが、荷鳥の羽音で何を言っているのかは聞こえない。

 朝焼けがソラの故郷を照らしはじめた。今年も乾季の雨は少ないらしく、地面も作物も乾いた印象だ。

 ソラが村長から習った歌は二つ。一つは雨を降らせるための歌。もう一つが雨を止ませるための歌だ。この分だと使う歌は一種類だけになることだろう。ナダの結婚式の直後に行った際は、一度目より多く雨が降った。きっと今回も沢山降るはずだ。

 降りる際に荷鳥の負担になってはいけないので、ソラは荷鳥から飛び立った。一段ずつ階段を下りるように足を動かしながら翼をはためかせれば、随分慣れて来たのか、ふらつくことなく地面に降り立つことができた。

 迎えがなくソラは首を傾げる。村長なり、その息子のクナトゥラなりが待っていると思ったのだが、誰もいない。違和感よりも不安感が勝り、ソラは次いで地面に降りたケビールを振り返る。

「お義母さんも来てないのは異常だな。村の入り口の方を見に行くから、ソラちゃんは物陰に」

「分かりました」

 ケビールが吊り橋を渡って見晴らしの良いところに向かうのを見届けて、ソラは岩の間に駆け込もうとして足を止めた。

 巡回には国王軍かイーティバルが来るはずだ。そう村長は言っていた。

 息を呑んで後ずさりするが、それに何の意味があっただろうか。月光と同じ色をした瞳の男が、岩陰から出てきてソラと対峙する。

 まだ面紗を顔に着けていない。外套の頭巾も外したままだ。顔を見られたので言い逃れもできなくなった。

「なぜあなたがここに」

 そう問われて男は困ったようにはにかんだ。

「俺の台詞なんだけど」

 ソラが一歩ずつ後ずさり、空中に逃げようとしているのが分かったのだろう。男は一気に間を詰めてソラの手首を掴んだ。大きなかさついた手。また背が伸びたようだ、引き寄せられれば見上げなければならない。

「なんでここにいるの、ソラ」

 懐かしい王宮訛りのカプラ語で、ラヒムがソラの耳元に囁きかける。浮かんだ涙は後悔ゆえだろうか、それとも違和感を覚えたのに降りてしまった自分に対する失望だろうか。

 だが、一度は逃がしてくれようとしたはずだ。見逃してくれる可能性もある。

「見なかったことにしてください」

「俺一人で来たんじゃないって。もう国王陛下もご存じだ、分かるだろ? 戻ってきてくれたら元通り鷹に戻れるように殿下が便宜を図ってくださる。戻っておいで」

「できません」

「君一人の居所で戦争が起こる。自分が一番分かってるんじゃないのか」

 それでも受け入れようとしないソラに、ラヒムが泣きそうな顔を見せる。

 今王宮に戻れば、元通りの生活が送れるだろう。盗賊に襲われて立ち消えになった結婚式をやり直して、自分を大切にしてくれる夫と主君のために尽くすことができる。だがそれでは、命がけでソラを逃がしてくれた多くの人の命が無駄になる。あの日の自分の決意を踏みにじることになる。

 そして何より、王太子の悲願が遠のくことは間違いない。

 戦争が起こることは避けたい。やっと仲良くなれた村人たちは、戦争が始まれば皆が傷つくことになる。

 主君の政策から続く未来か、それとも今生きる人々の一時の平穏か。

 話し合いで解決することを望みたかった。だが誰も彼もできないという。理由は誰も教えてくれなかった。

「今からでも俺の奥さんになるのは嫌?」

 人の心を揺さぶる術を、一体彼はいつ覚えたのだろう。

 そんなことを考えながら、ソラはかすれた声で否と伝えた。元より憎かった婚約者ではない。一度はソラが出ていくことを受け入れてくれたはずだが、もうそうしてくれないという。ラヒムがソラを引き寄せて抱きしめる。

 いっそ戻ってしまおうか。そんな欲望すら抱かせる優しい抱擁。

 自分が戻れば少なくとも二人は喜んでくれるはずだ。そう言ってくれているのだから。

 とん、と胸に誰かの指先が触れた気がした。このまま幸せに甘んじてはいけない。そう言われた気がしてソラは震える手で彼を遠ざけようとした。

「お前! 人の嫁さんに何してんだッ!!」

 ソラの手がラヒムを押しのける前に、罵声と共にラヒムが突き飛ばされた。ソラは腕を多少上げた以外は、相変わらずろくに身動きが取れずにいる。ケビールに引き寄せられて腕の中に仕舞われてから、ソラはほっと息を吐きだす。それは駆け付けたケビールも同様らしく、安心したようにため息を一つついた。

 ラヒムは自分よりも背の高い男に突き飛ばされたというのに、数歩後ずさっただけで何事もなかったかのような顔をしている。

「自分の妻との再会に喜ぶのは当たり前だ。送り届けてくれたことに礼を言うべきかな。それとも」

 腰から下げた宝刀は、ただの飾りではなかった。

 半月刀の切っ先がケビールの髪を掠めたのを眼前

にして、ソラは息を呑む。驚きと怒りでケビールも絶句している。的確に致命傷を狙うあたり、彼の怒りが相当なことが見て取れた。

「他人の妻を自分の嫁だと言い張る不貞の輩を退治するのが先か」

 ケビールも護身用の短剣を取り出して応戦するが、攻撃範囲が違いすぎる。防戦一方だ。

「いやもう俺の嫁さんだし! お前は過去の男だって! なっ、ソラちゃん!」

 十分すぎるほど不利なのに尚も喧嘩を売るケビールにソラは言葉を失った。何も言わずに逃げたほうがまだ良い。過去の男だと揶揄されたラヒムは、ソラが見たことのないくらい怒りに満ちた顔でケビールを睨みつけている。その表情に、あの頃の優しかった彼の顔はない。案の定怒りを買ったのだ。攻防が激しくなる。

「ふざけるなよ! 嫁さんだなんて下品な呼ばれ方をされる筋合い、ない! どれだけ殿下が大切にして、ずっと傍にいた俺でさえ、下賜の願いを出せずにいたのに!!」

 自分なんかのことをどうして忘れてくれなかったのか。そう問い返すことができずソラは立ちすくんでいた。

 自分がいなくなったのだから、ラヒムは元から迎えるはずの妻を迎えているはずだ。自分ひとりいなくなったところで、彼が困るはずはないのに。

「戻ってきてくれ、ソラ! 殿下があれからどんな気持ちでお過ごしか、分からないとは言わせないからな!」

「聞くな! 飛べソラちゃん!」

 二人にほとんど同時に怒鳴られて、ソラは唇を噛み締めた。そのうえで翼を広げる。一歩、二歩、三歩。あの時とは違う。飛び方は十分知っている。

 宙に浮く直前、ソラはラヒムを振り返った。

「殿下の王道を、祈っていることに変わりはありません」

 いかないでくれ。振り絞るように彼は言った。もう顔を見ることは耐えられず、急いで高く飛び上がる。

 近くに停めていた荷鳥に乗ってケビールも後に続く。後ろを見ると、ラヒムも慌てて王太子の紋章をつけた荷鳥に飛び乗り、飛び立とうとしていた。その瞬間、砂塵が吹き荒れラヒムの乗った荷鳥は飛び立つことが叶わなかった。

 ラヒムは遠ざかるソラをそれでも追おうとしたのだろう。何度も何度も名を呼ばれることでソラは知った。もう地上を見下ろす勇気はない。

「くそ、何で俺はいつもこんなに天上神に嫌われてるんだよ……」

 彼の呟きは砂塵に飲み込まれ、誰の耳にも届くことはなかった。

 ソラは頭上に広がる分厚い雲を眺めて、目尻に浮かぶ涙を拭って唇を噛み締めた。彼がどれほど強く自分が戻ることを願ってくれているのか、その一端を見たような気がしたからだ。一度は見逃してくれた、今は追ってくれた。一体彼はどんな心情だったのだろうか。抱きしめられた体が、あの日触れられた唇が、にわかに熱を持ち始める。

 ぽつり、と雨が落ちてきた。

「こっちに来る?」

 荷鳥に乗ったケビールが追い付いてそう声をかけてくれた。広げられた腕を断ろうとして、泣きそうな顔をしている彼に誘われるままに腕の中に落ち着く。途端にわっと涙が目に浮かんだ。

 顔を覆うソラの体を、ケビールはそっと支えてくれた。

「ごめんなさい、本当に軽率でした」

「仕方ないよ。俺も考えもしてなかったから」

 先ほどの予期しない戦闘は、彼にとってそれなりに負担だったらしい。ソラを支える手も体も熱い。どこも怪我をしていないだろうか、確認したくてもそれらはすべて涙の中に飲まれていった。

 戦争が始まる。

 差し迫った不安に二人は黙り込み、ただ荷鳥が進むままにセメクを目指した。

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