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宵闇に灯火の唄を  作者: 野木 千里
第二章
33/142

30話

 約束していた全ての小物入れを配るのに七日もかかった。ようやく肩の荷が下りたソラは、目いっぱい伸びをして翼を大きく広げた。ここ最近、籠ってばかりで宙にも浮いていなかった。

「前の婚約者のこと言えばよかったのに」

 いつから見ていたのか、ケビールが川の中から顔を覗かせる。小脇には子供を抱えている。どうやら赤花藻を探しに出てそのまま眠ってしまっていたのだろう。それなりに乱暴に扱われているにも関わらず熟睡している。

「この子大丈夫なんですか?」

「布団に包んで火に当てとけばそのうち起きるよ」

 それは冬眠では、と思ったが流石に聞けずにソラは黙った。今まで川に浸かっていて凍りそうなほど冷たい手で手を握られて眉をしかめる。本当は悲鳴をあげてしまいそうだったが、主人の顔が脳裏に浮かんだので耐えた。いくら王宮から出てきたとはいえ、王太子の顔に泥を塗るような真似は出来ない。

 ソラの手を冷やしている張本人は温かいと満足げで忌々しかった。

「それで? 言っちゃえば良かったのに。私には婚約者がいたのですぐには考えたくないですって」

「裏切って出て来たのに?」

「別に誰かが本人に言いつけに行けるわけじゃないし。二十三人いてうち十人に求婚されるのなんてよっぽどだよ」

 だからといってラヒムの存在を利用するのはソラにはできそうになかった。思い出すだけでも胸が苦しくなる。今まさに無神経にもケビールがそうしてくるように、誰かに言及されることすら不愉快だった。

「ケビールさんこそ、昨日も一昨日も刺繍細工を受け取っておられましたね。もう返事はお待ちにならないと思ってもいいですか」

 返事が刺々しくなったことに、ソラは自分で自分が不思議だった。

 女の子たちから笑顔で刺繍細工を受け取っているケビールを見たのだって、一度二度の話ではなかった。その姿を見るたび心がささくれる。ソラがそんな思いを抱いていることなど、彼は想像もしないのだろう。

「祭のときに身に着けることになってるから断れないって。帽子だけは先約があるからって断ってるし。仕上がったらちょうだい」

「他の方になさればよろしいのに……」

 文句を言うソラに背を向けて、ケビールは焚火場所に薪を放り入れた。婆様の家のすぐ裏だ。ソラは布団を、ケビールは竈から火を貰って子供が目を覚ますための準備をする。婆様から湯沸かし器と茶器を貰って外に出ると、ちょうど火が回りだした頃だった。

 茶を渡すときに触れた手はもう凍りそうなほどではなくなっていたが、それでも恐ろしく冷たい。冬の間、彼らの体は冷たく冷え込むのだろうか、と思案して、あの晩のケビールの手は熱かったことをソラは思い出した。

「本当は将来は族長選に出られる予定なんでしょう? 泳ぎも漁もお上手だと伺っていますし、カプラ語も堪能です。私でなくともふさわしい方がいらっしゃると思いますよ」

 これは言外のお断りだ。ソラだって、彼が憎くて断るわけではない。

 ただ、彼の立場を考えた時、自分は対象外だろうと察してしまったのだ。族長の息子であるということ自体、既に障りがある気がしてしまう。実際のところ、族長は血統ではなく選挙で選ばれるものらしいが、文字が書けて外国語が使えるケビールはかなりの有力候補だ。御力みちから、と呼ばれる水を操る能力だって村で一番で、同世代では確実に頭一つ抜けている。

 そうなると族長選で選ばれて、国の族長会議に呼ばれることとなる。村の規模と族長個人の力にもよるところはあるが、国の運営も担う方に選ばれる可能性もある。今の族長は違うらしいが、過去に国の代表となった族長も輩出しているはずだ。歴史の本に記載があった。

「要領がいいからだって。カプラ語とかすぐ覚えたし」

「器用という域ではありません。あなたがそれだけ何でも出来るのは、そうなろうと努力なさったからでしょう。妻に種族違いを入れるのは愚策です。せめて二人目以降になさってはどうでしょう」

 彼は出来すぎる。だから将来族長を望まれる可能性だって十分ある。

「王太子の元『鷹』なら一族長には十分すぎるけど? 前の主人と晩餐会がしたいって言うなら一番だって目指すよ」

「それは」

 言い淀んだのをケビールは見逃さなかった。

「あのさぁ……本当に言ってほしいんだよ、俺が嫌なら。前のヤツがまだ好きで、俺じゃダメだって言うなら引くよ。そればっかりはどうしようもないし。でもソラちゃんのはそうじゃないだろ」

 黒曜石の色の瞳が、真剣なまなざしでソラを見ている。

「『自分なんか』って思うなよ。ご主人様のところから何にも持たずに出てきただろ。なんでかも知らないけど、俺達に何も教えないっていうことは王子様のためだろ。戻らないっていうのがそのためならさ、どこかで幸せになるのがこの先ソラちゃんが出来ることだよ」

 主人の顔を思い浮かべて、ふと涙が浮かんでしまったソラは顔を伏せた。後頭部を温かい手が撫でる。

「……でも、殿下を裏切って出てきました」

 ケビールの前でソラは泣いてばかりだ。自分で自分にうんざりする。それでも彼は一度も激しく狼狽えたり苛立ったりしなかった。それがソラには不思議でたまらない。

「見てりゃ分かるよ。すげー大事に育ててもらってる。結婚式の前日に出てきた。俺たちに思い出にも触らせないで、寂しそうに月を見上げて。ただ裏切ったんじゃないってことくらいさ、何にも知らない俺でも」

 目の前の男が族長になるのなら。嫌な打算がソラの頭に浮かんだ。

 彼が王太子の鷹を妻に迎え入れて、族長になったとしたら。そしてもし、国営族長に選ばれて鳥人族の保護に向けてカプラ王国へ力添えをすることになったとしたら。もう王太子へ顔向けはできなくても、自分という存在に価値が生まれる可能性はある。

『族長になる覚悟はおありですか』

「はっ……?」

 カプラ語で問われて、ケビールが激しく動揺した。慌ててあたりを見回して、ソラの方へ向き直る。

『なれなくてもかまいません。国と未来を背負う覚悟はおありですか』

『え、その……なれるなら、なりたいけど。国営族長こくえいぞくちょうになれってこと?』

 激しい動揺。王太子なら、この言葉程度で驚いたりしないだろう。生まれた時から当たり前のことだったから。

 ソラはじっとケビールを見つめた。ソラとしてではなく、カプラ王国王太子の鷹として。

 この男に、鳥人族解放の悲願を任せられるだろうか。ソラの言葉を聞いてあまり狼狽えるようであれば、責任を背負いきれないと判断した時点でソラは過去の自分を全て捨て去り、王太子の王道へ手を添えたいという願いも忘れようと思った。

『順当であればするし、そうじゃなければしない。俺がそうする必要があったらするけど、俺に適性と運と皆の応援がなければやらない。権力にしがみついてみっともなく縋ったりするようなことはしない』

 成程、王宮では得られない回答だろう。嫌でも順番が来ればそれなりの地位につくことになる。王太子しかり、ラヒムしかり。

 考えたことのない価値観を聞かされて、ソラはしばらく悩んだ。今度はケビールの黒々とした澄んだ目がソラを品定めしている。

 ここでは、誰か一人に権力も責任も集中しない。目に余る暴君は引きずり降ろされる。だから彼も責任ある立場へ向かうことに躊躇がないのだろう。

「分かりました。では全てお話します。僕、もう起きていいですよ。お茶を飲んだらお母様のところへお戻りなさい」

 二人の会話を聞いてはいけないと懸命に眠ったふりをしていた子供が、むくりと起き上がって、慌ててお茶を飲んで走っていく。助けてくれたケビールにも、いつもおやつをあげているソラにも目もくれない様子を見ると、外国語とはいえ深刻な様子は伝わっていたらしい。

 ソラはケビールに家の中を勧める。

 初めて、男を家の中へ招き入れた。

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