三十話 考えるだけ無駄である
目の前がちかちかと眩み、思わず跪く。手をついた先から伝わってきたのは、つるつるとした滑らかな感触。
塔は武骨な石畳でできていたので、こんな感触がするはずないのに。
それにさっき聞こえた声。低い声は、アドフィル帝国にいた時に聞いたことはない。
そして聞こえた名前。私ではない、お姫様の名前を呼んでいた。しかも呼び捨てで。
低い声を持っていて、お姫様を親しみをこめて呼ぶ人で、私が知っているのは一人しかいない。
視界がはっきりしてくるにつれ、自分の予想が当たっていたことがわかった。
シャンデリアの下で輝く金の髪に、雨が降りはじめる前の空のような黒と灰色が入り混じった瞳。
しっかりと顔を確認したのはこれが初めてだ。
初めて会った時は、顔を上げる許可をもらえなかったから。
あの時も――私を見下ろしていたあの時も、きっと今のような瞳の色をしていたのだろう。
そして今のように、憎いものを見るような目をしていたのだろう。
「どうしてお前がここにいる」
低く、地を這うような声。そこだけは、前と違った。
あの時はただ命令するだけだったけど、今は明確な敵意がこめられている。
「どうしてと言われましても……どうしてでしょう」
いや、本当に、どうしてだろう。
塔の中で話していたはずなのに、どうして目の前にいるのが王様になっているのか。私には皆目見当もつかない。
はてと首を傾げると、頭上から舌打ちが降ってきた。
「アルテシラを連れて行ったのはお前の手引きによるものか。アルテシラは今、どこにいる」
矢継ぎ早の質問に、なんて答えたらいいのか悩む。
私の頭は絶賛混乱中だ。王様がいるのはわかったが、ここがどこかもわからない。
ぐるりと周りを見回すと、白い壁と床があって、騎士が何人かいるのがわかった。
こうして王様からの質問を受けている最中も騎士が増えていることを考えると、お姫様は本当に皆に愛されているのだと実感する。
お姫様は王様に内緒でアドフィル帝国に来たと言っていたから、王様はもちろん、皆心配していたのだろう。
そこに何故か私が現れて、何か知っているかもと聞きに来たに違いない。
とはいっても、私に話せることなんてほとんどない。
「多分、アドフィル帝国に……」
間違いなく、ここはアドフィル帝国ではないのだろう。ルーファス陛下の姿も、ヴィルヘルムさんの姿もない。
これでアドフィル帝国だと考えるほど、私は間抜けではないはずだ。多分。
「……忌々しい。下賤な者の目すら欺けんとはな」
王様は私の発言をどう受け取ったのか、吐き捨てるように言った。
これはもしかして、私がお目当ての相手じゃないとばれたので、こっそり戻ってきてお姫様を拉致したとか、そんな風に思われたのかもしれない。
だけどそもそも、欺くも何も。
「やはり、灰色を銀と言い張るのは無理があるかと。まったくの別物ですし」
最初から無茶振り無理難題だったんだから、欺けるはずがない。
言い張られたって灰色を銀だと思える人はいない。もしもいたら、その人の目は節穴でできているに違いない。
自信満々に言うと、何故だか先ほどよりも強く睨まれた。
――そういえば、王様は銀色の王妃様の代わりに灰色のお母さまに手を出した人だった。
「いえ、もちろん――」
王様のことはまた別ですよ。間違えたわけではないですし、ただ王妃様と喧嘩して虫の居所が悪かった時に似た色を見てうっかりしただけですものね。
そう弁明しようとしたのに、それよりも早く騎士に取り押さえられ、続けることができなくなった。
片腕が背中に回され、顔が白い床に押しつけられる。無茶な体勢にわずかに関節に痛みが走る。
それでも、腕が外れることもなければ折れることもない。ありえない方向に曲げようとしても折れないことは実験済みだ。
頑丈すぎる骨は、ありえない方向に曲げることすら無理だった。骨ではなく鉄でも入っているのかと錯覚してしまうぐらい、この体は丈夫だ。
そのことは王様もよくわかっているはず。ならこの体勢になんの意味があるのか。
答えはすぐにわかった。
「髪を切り、アドフィル帝国に送りつけろ」
ひゅっと息を呑む。
頑丈すぎるこの体にも例外はある。それは爪と、髪だ。爪も髪も普通の鋏や剣で切ることができた。
爪を剥がせるのも試し済みだ。爪と髪だけは、普通の人と変わりない。
「あ、あの、髪は女性の命とも言う地域もあるそうで」
身をよじるがびくともしない。
私の目も顔も皮膚も骨も体の内に流れる血すらもお母さまには似ていない。私の中で唯一お母さまと同じなのは、灰色の髪だけだった。
首に縄をかけようと、城壁の上から足を踏み外そうと、体に刃を突き刺そうと、毒を何度飲んだとしても、選ばなかった方法が一つだけある。
それは火を使うこと。切れるのなら燃えるかもしれないと思って、火だけは使わなかった。
お母さまとの繋がりを実感できる髪を失いたくなかったから。
「髪、でなくとも私の手でも指でも首でもなんでも差し上げます。ですから、どうか髪だけは」
髪を掴まれ顔がわずかに持ち上げられる。そして鞘から剣が抜き放たれる音が聞こえた。
私の懇願に王様は顔色一つ変えず、視線を送った。私を押さえつけている騎士に。
剣の滑る音が聞こえ、抵抗を失った顔が床に落ちる。視界の片隅に、灰色が映る。
お母さまと同じ髪。どんなに邪魔でも、お母さまと同じ長さに整えていた髪。
私がちゃんとお母さまの子供なのだとわかる唯一が、床に散っていた。
「謀った者を罰したと知れば、無法者でも多少は聞く耳を持つかもしれんからな」
王様の声が遠く聞こえる。
「わ、私は何もしていません。お姫様が――アルテシラ様が自ら参られたのです。ルーファス陛下が好きだからって、だから、それなのに、どうして」
切り離されたものを取り戻すことはできない。それでも、どうしても言わずにはいられなかった。
「うっかりでお母さまから大切なものを奪って、今度もうっかりで私から大切なものを奪うんですか」
十六年ため続けた恨み言。
お母さまから幸せを奪ったのは私と、王様だとわかっていながらも考えないようにしていた。
考えても無駄だから、言うことすらもできないと思っていたから。
「妖精の血をひいているからなんだっていんですか。何をしても許されるとでも思っているんですか。お母さまが泣いていたのも、毒を飲んだのも、全部全部、あなたのせいじゃないですか」
あのひとはよく考えてごらんと言っていた。
どうして死にたいのかの答えはわかっている。お母さまの幸せを奪ったのが私だったから。
誰に殺されたいのかもわかっている。殺してもらえるのなら誰でもいい。
そして誰を殺したいのか。
もしも私に誰かを殺せるのなら、その相手は二人だけ。
「戯けたことを。それが許されるからこその王だ。それに……毒を飲んだのはお前のせいだろう」
お母さまを苦しめて、お母さまの幸せを奪って、愛し、愛されるはずの生活を奪って。
すべて正しいのだと思っているようなこの人と、私だけ。
「埋めろ」
だけどまあ、言ったところで、思ったところで、どうにもならないのだけど。




