十八話 皇帝2
ルーファスが初めて彼女と会ったのは、七歳の頃だった。
母の尽力により敵国であるエイシュケルの地を踏んだのもその時が初めてで、景観を考えて作られた建物を見上げていたら、彼女と出会った。
「おにーさん、あぶないですよ」
ぐい、と袖を引っ張られ、思わず後ろにひっくり返りそうになったのを、ルーファスは踏ん張ることによって耐えた。
危ないと言いながら危ない真似をしてきたのは誰なのかと、袖を引っ張った者の正体を見ようと後ろを振り返り――
「そこの草は、ふんだらおこられます」
そこには、黒い外套で全身を覆った、小さい何かがいた。
「……お前は?」
声からして、女の子だろう。背丈とお兄さんと呼んだことから、ルーファスよりも年下だということはわかる。逆に言えば、それだけしかわからなかった。
「お買いものにきただけの、人ですよ?」
こちらを見上げている小さな何か。首を傾げた拍子でずれた外套の奥で、日の入りを迎えたばかりの空のような瞳が輝いていた。
それから数年後、ルーファスは再度エイシュケルの地を踏んだ。
皇帝に命じられ、母と自分の命、どちらを取るか天秤にかけた結果だった。
王城に忍び込むこと自体は簡単だった。前に訪れた際に、抜け穴を教えてもらっていたからだ。
実際には、一緒に王都を見て回った後に、ここでお別れと言って、城壁に空いた穴から中に戻るのを見ただけだが。
「……不用心だな」
あれから数年が経っている。塞がれていてもおかしくはなかったのに、穴はいまだ空いたままで、ルーファスはそこをくぐり、城壁を越えた。
穴の先には森が広がっていた。木々が並び、緑色の葉が日差しを遮っている。だが葉の隙間から落ちる光が地面を照らしているからか、そこまで暗いとは思わない。
アドフィルの城内にも庭園などはあるが、ここまで立派な森のような場所はない。王が弑逆される前まではあったのかもしれないが、少なくともルーファスが生まれてからは、庭園がたまに手入れされているぐらいで、城内の自然は放置されていることが多かった。
「お兄さん、何してるんですか?」
自然溢れる光景に呆気に取られ、足元も見ずに歩いていたことが仇になったのか、突如として襲ってきた痺れで体が動かなくなっていた時、聞き覚えのある声が降ってきた。
「あー、ハスの葉で肌を切ったんですね。痺れ毒が葉先にあるので、気をつけないとあぶないですよ」
「……なんでそんなものが、こんなところに」
痺れてうまく動かせない唇を必死に動かす。
城壁を越えたのだから、ここは王城の一角のはずで、そんな場所に物騒なものを生やしておく道理はない。
「そういうことも、ありますよ、うん」
どこか歯切れの悪い口振りに、ルーファスは痺れているのとは関係なく、顔を引きつらせた。
「お前のせいか……」
「人聞きの悪いこと言わないでください。こんなところに人が来るなんて、思ってなかったんです」
拗ねたような声に、地に伏せていた顔を上げる。以前は外套に覆われていた姿が露わになっていた。
以前は空色のように思えた瞳は夕暮れ時のような金色のまざった赤に、そして髪は差しこむ日の光によってか輝いてみえた。
「解毒剤を持ってくるので、少し待っていてくれますか」
「……わかった」
ルーファスは逡巡してから頷いた。
明らかに今の自分は怪しい。解毒剤と言いながら人を呼ばれてもおかしくはない。
だが断ったところで体を動かせないのは変わらず、どうあがいても逃げることは敵わないと、自らの命運を彼女に預けた。
それからについては、ルーファスにとっては苦い思い出だ。
噎せ返るような匂いの中、どうして毒を作るのか聞いた彼に、彼女は「死ぬため」だと朗らかに笑い、帰り着いた国では母が吊るされ、玉座を血に染めた。
そして血の滴る剣を片手にルーファスはヴィルヘルムが幽閉されている塔を訪れ、彼を解放した。玉座を彼に渡すために。
「僕が玉座に? いやだよ」
暇つぶしにと与えられた本を読んでいたヴィルヘルムは、考えることすらもなく答えた。
「どうせ僕が王になっても、天使の血は僕の代で根絶するだろうし、家臣にせっつかれるのも面倒だ」
「なら、国は……帝国はどうなる。王がいなければ瓦解する」
「君が皇帝になればいいだろ。王を弑逆した者が皇帝になり、皇帝を弑逆した者が皇帝になる。何もおかしなことはないと思うけど」
ヴィルヘルムが幽閉されてから、すでに十数年もの時が流れている。幽閉して間もなくであれば、彼もしかたないと腰を上げたかもしれない。
だが国と民と殺された王――彼の父のために、自分の信条を曲げて玉座に座るには、あまりにも時が経ちすぎていた。
「僕の唯一の友、ルーファス。友として、そしてこの国の民として、最後の天使の血をひく者の願いを聞き入れてくれるかい?」
本を閉じ、ヴィルヘルムは瞬く瞳をルーファスに向けた。
「天使の血をひく者は腕力に優れていることは、何度も言ったよね」
天使の血は人ならざる腕力をその者に与える。それは、幼い子供――それこそ赤子であろうと変わらない。
ほんの少しの遊びのつもりでも、ほんの少し駄々をこねただけでも、相手の肉を抉り、骨を砕く。
しかも子供のうちは力加減もうまくできず、ヴィルヘルムは幽閉されるまで、自分の手によって傷つく乳母や母を見続けてきた。
「僕はどうしても、唯人との間に子供を作りたくないんだ」
その主張は、ルーファスがヴィルヘルムの話し相手となってから何度も聞いたものだ。
相手も承知のうえで、なんの感情も抱いていないのなら、気にならないかもしれない。だがもしも相手のことを愛してしまったら、愛する人が傷つくのを見続けなければいけない。
しかも、愛する人との間にできた子供によって、愛の結晶ともいえるものによって傷つくのを。
「だからルーファス、君が皇帝になってくれ。僕は君の補佐を務めることにするよ」
真剣な面もちで言うヴィルヘルムに、ルーファスは否とは答えられなかった。
だが頷くこともできない彼に、ヴィルヘルムが悪戯めいた笑みを浮かべる。
「それに、宰相の子が王に、王の子が宰相になるなんて皮肉が効いてて、面白いと思わないかい?」
「……どこがだ」
は、と乾いた笑いを漏らしながら表情を歪め、結局ルーファスは彼の願いに応じた。
「ヴィルヘルム」
ライラを部屋に帰し、彼女に毒を盛った侍女を牢に入れ、ヴィルヘルムと二人になった部屋の中でルーファスは小さく呟く。
「本当に、あいつが王女で間違いないのか?」
輝くような髪と色の変わる瞳を持つ彼女がエイシュケルの王女だと言ったのは、ヴィルヘルムだった。
森の中で生活していた少女が王女であるというのはにわかには信じがたかったが、特徴からして間違いないと言い張ったのもヴィルヘルムだ。
「色の変わる瞳は、まぎれもなく妖精の血をひく者の特徴です」
「……あいつは王女で、戦争の功労者だ。なのに、どうして死にたがる」
王族の子は生まれにくい。だから生まれれば大切に育てられるのは当然で、しかも戦争の功労者ともなればよりいっそう大切にされるのは当然のはずだ。
少なくとも、ルーファスの知る常識の中では。
「昔はどうあれ、今は破格の待遇を受けていると、そう思っていたのが間違いだったのか……?」
「あれだけ頑なに帰ろうとしていなかったんですから、察するべきでしたね。……国では王女とは思えない扱いを受け、妃として嫁ぎ大切にしてもらえるかと思えば認めないだのなんだの言われ……ああ、なんてかわいそうなライラ様。どこにも希望がないと死にたがるのも、しかたないのかもしれませんね」
やれやれと言わんばかりにため息を落とすヴィルヘルムに、ルーファスは言葉に詰まった。
ぐうの音も出ないとはまさにこのことだろう。
「とりあえず、許しを乞うところから始めては? 許していただけるかはわかりませんが」
「……あれだけ妻ではない妃ではないと豪語しておきながら、今さら妻として扱えと言うのか」
「ライラ様の御心についた傷を癒すためには、それしかないと思いますが……まあ、プライドが邪魔して嫌だとおっしゃるのでしたらしかたありませんね。女性の扱いに長けた者を何人か見繕い宛がいましょうか。蝶よ花よと扱われれば、陛下のことを忘れて謳歌していただけるかもしれませんし。子は……誰が相手だろうと陛下が我が子だと承認すれば民も納得してくれるでしょう」
人ならざるものの血をひく者は子ができにくく、多数の伴侶を持つことがどこの国でも認められている。
それはアドフィルでも変わらず、妖精の血をひくライラが何人もの異性に囲まれていようと、違和感を抱く者はいないだろう。
そして女性の扱いになど慣れていないルーファスと絆を深めるよりも、女性の扱いに慣れている者のほうがライラの傷を癒すことができるかもしれないというのは、懇切丁寧に説明されずともルーファスも理解している。
「……それは、最終手段だ。彼女が俺を許してくれなければ、それも……視野に入れよう」
だが理解できるからといって納得できるかといえば、話は別だ。
「では、彼女に謝るのですか?」
「ああ。……これからは妃として扱うと……この国にとって必要な、生きていていい立場なのだと、伝える」
「妻としては?」
「それは……彼女が俺を許してから、考える」
考えるも何もすでに結婚しているんですが、というヴィルヘルムの軽口を聞き流しながら、ルーファスはどう謝罪するかを考えはじめた。




