8 どうにかなりませんか……。
お客用のエリアに戻ったあと泉原さんと分かれ、わたしは天野さんと二人きりになりました。
……えっ、やだ、このひとと二人きりだなんて死んでしまいます! メンタルが!
「顔色悪いよ?」
むぎゃーっ! 天野さんは心配そうに! わたしの! 顔を覗き込むな! マジで! 怖い!
…はっ、心が乱れました。疲れているのでしょう。
「そうか。休む。ついてくるな」
女子B客室までさすがについては来ないでしょうけど。
ちょっと寝たいです。人と話すのが大の苦手なので疲労困憊です。
ただでさえ慕っている先生が死んだのではないかとドキドキしたのですから。わたしは背を向けて歩き出します。追うような気配はありません。
安心しながらこのまま部屋に戻ろうとした時です。
「ノバラさん」
呼び止められました。はい、なんでしょう……。
振り向かないまま、わたしは「なに」と聞きます。
「本当は、君が殺したんじゃないのかな」
…あー。
ああ…。
疑われても文句は言えません。表情は無いに等しく、態度も淡白、リアクションも皆無。それがわたしなのですから。
「違う」
振り向かないまま答えました。
声が震えていれば。涙が出てくれば。取り乱せることができれば。悲壮な表情を取ることができたら。どれほどよかったことか。
でも、わたしからそれらの感情表出は抜けています。前の職場では不要だったのです。
最低限の読み書き、命令の実行、銃の扱い方、人の殺し方。それさえあれば、よかったのです。
でも、本当はよくなくて。
仲間のために泣けないわたしは、だめだったらしい。
「そっか」と天野さんは言います。なぜか笑っているようでした。
「ノバラさん、ノバラさんのことたくさん聞いたから、僕のことも教えるよ」
聞きたくない、と答えるひまもなく彼は続けます。
「僕は人の声が色で視えるんだ。特に、嘘の色を視るのは得意でね」
なんですかそれ。共感覚というものでしょうか。
それとも――精神的揺さぶりか。
なんで共感覚なんて知っているのだろうと記憶を遡ったら、先生もそうでした。嘘が視えるらしいです。探偵ジョークみたいなものでしょう。
「泉原さんは嘘をついている。彼女はただの乗務員ではない。信頼するのは、危険だと思う」
わたしは鼻で笑いました。
本心からです。
「だから? 泉原を信じず、おまえを信じろと?」
吐き捨てます。
天野さんがどんな顔をしているか見れません。でも言わなければならないと思いました。
「先生以外、誰も信頼していない。この船だけではない、この世界でだ」
喋りすぎました。帰りましょう。わたしは天野さんの言葉を待たずに走り去りました。
……。
うわっ、やっべ、やっちゃったコレ!!
○
――朝、起きて。支度を済ませて。
いつも真っ先に確認する愛銃がなくて、研ぐナイフがなくて、手持ち無沙汰でした。
ふらふらと移動した先のリビングにリビングに立ち尽くします。
何分ほどそうしていたでしょう。
背中に気配。緩慢な動作で二メートルほどの位置で停止。
「うわっ、何おまえ日の出に起きるの? 変態かよ」
振り向くと寝癖をつけた先生でした。わたしを拾った人。わたしをここに泊めてくれた人。
見た目がめちゃくちゃ怖いし、言動もおっかないし、中身はいい人と思えばそれなりにクズだしで、あれ? いいところがない。
とにかく、どんな目的かは知りませんが、わたしを危機から遠ざけてくれた恩人です。
彼は灯りをつけました。
「テレビ点けるならボリューム8以下にしとけよ。リモコンはソファの辺りにあるだろ。うるさくしたら殺すからな」
寝るわ、と寝室に戻ろうとする先生に疑問をぶつけます。
「…何をすればいいのですか?」
「あ?」
「テレビ、何を見ればいいのでしょう? わたしは何をしたらいい? どうすればいいか……分かりません」
先生は心底めんどくさそうな顔を作ります。
莫迦なことを言いました。元上司は、このような意味のない問いに厳しい人でした。大抵の場合は殴り、酷いと……いえ。死んだ元上司のことはもういいでしょう。
わたしは自分の過ちに気づき思わず身体を強張らせるも、先生は怒鳴りもせず暴力も振るわず、代わりに静かに言いました。
「俺は真っ当な会社にいたことが無いから知らんが、指示待ち人間ってのはお前みたいな奴の事を言うんだろうな」
わたしは何も考えるなと言われていましたから。
だから、今になって自由になっても、どう動けばいいのでしょう。
「はーぁ。仕方ねえな、まずは朝飯を食うか」
俯くわたしにそう言って先生はキッチンに入りテキパキと準備を始めます。
インスタントコーヒーを入れ、冷蔵庫からゆで卵を取り出し、トースターでパンを焼きます。
「ん。次からは自分で淹れろ」
「はい、ありがとうございます」
黒々とした液体が目の前に置かれます。
コーヒーです。いい匂いがします。
「パンは適当にトースターで…おい、そのまま食うのか」
呆れたように先生はわたしを見ます。
「ジャムぐらい使っても怒らねえよ」
「このままでも活動には問題ありません」
「だー、そういうカタブツな意見は俺ァ聞きたくないの。ちょっと貸せ」
わたしの食べるはずだったパンがイチゴジャムで真っ赤になりました。
「食ってみろ」
「…甘いです」
「88円の激安ジャムだからな、旨くはねえよ」
キラキラとジャムが輝いています。食べたことのない味にわたしは戸惑います。
甘くて、頭が痛くなりそう。こんな味があるんだ。食べてもいいんだ、わたしが。
「生き物は美味いもんを食って初めて生きてることを実感するんだよ」
何でもないように彼は言います。
先生の視線はテレビに向けられていました。だけどわたしの耳は先生の言葉を余すことなく聞き取ろうと神経をとがらせています。
「パンを焼いて、マーガリンなりジャムを塗って、コーヒーも淹れて――。手間のかかる行程を終えて食えば、多少はマシな朝メシになる。マシな朝メシから、まあまあ合格な1日の始まりになる。だからノバラ、朝だけはしっかりしろ」
すべてにおいてめんどくさそうな言動の男性ですが、それだけははっきりと言いました。
「いただきます」
「……い、いただきます」
ジャムは甘くて、コーヒーは苦くて、その朝から自分好みの味を覚えるのに随分と時間がかかりました。
逆に、もっと高くておいしいジャムがあると知り、それが置かれるようになるのに一か月もかかりませんでした。
「食事は生き物に共通した娯楽だ。粗末にするな」
「……はいっ」
携帯食と缶詰め、ビスケット、サプリメントで生きてきたわたしにとって初めてのごちそうでした。