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39 ここまでにしましょう。


「ノバラ」

 頭を押さえている天野さんを見下ろしながら先生はわたしを呼びます。


「止めろ」

「はい」


 返事もそこそこに、わたしは走りながら襟元に手を突っ込んでテーブルナイフを取り出します。

 井草さんを背中に泉原さんの前に立ちふさがりました。「守らなきゃ」と口の中で繰り返していた彼女は、テーブルナイフとわたしの顔を交互に見ます。


「ああお客様、船内の備品を持ち出されては困ります……」


 うわごとのように呟きました。限界を迎えた彼女の意識はここではないどこかに飛んでいるのでしょう。

 現実なんて、見たくないですよね。分かりますよ。

 わたしは――わたしは、彼女に対して何も言えません。知ってしまった事実をフォローすることも、天野さんの言葉を否定し目を覚まさせることも出来ないのです。

 きっとこの状況に適切な言葉があったのでしょう。

 説得が、共感が、あったはずなのです。だけれどわたしは一つも思いつきません。

 だから、できることはただ一つだけ。物理的に彼女を止めることのみ。

 泉原さんがナイフを振ります。軌道が予測でき、握りも甘いそれを弾きます。ナイフはくるくると頭上をまわり、重力に従って落ちました。

 彼女が手を伸ばすよりも早くわたしの手の中に納めると、自分の長袖をまくり上げて前腕を露出させます。ナイフの切っ先を当て、そのまま皮膚を切り裂きました。

 傷口を見せつけます。


「っ!?」


 びくりと泉原さんは動きを止めました。

 じわじわと血が溢れ、一滴床に落ちます。


「泉原、見ろ。血だ。おまえが、今から流させようとしているものだ」


 もう一滴、滴ります。

 我慢して泉原さんの目を真っ向から見つめます。

 恐怖がゆっくりと瞳に浮かびました。わたしへのものか、自分がしようとしていたことに気づいたのか。


「爪の間に入り込むと二日は落ちない。生臭いし、触ればべたべたする。それがずっと付きまとうんだ。忘れることは出来ない」


 積み重ねた死の匂いの中で生きていかなくてはいけないのだ。

 わたしにはそれが悲しいことかは分からない。だって、物心ついた時にはそういう生き方だけしかなかったから。

 でも泉原さん、あなたは違うでしょう?

 まだ引き返せるなら引き返さないと。


「殺すな、泉原海花」


 殺したら、人間でなくなるから――。

 多分、暴力以外にも選択肢はあるはずです。わたしは暴力しか知らないけれど、もっと血の流れない守り方が。

 泉原さんはくしゃりと顔を歪めました。すすり泣きながら崩れ落ちます。

 彼女のそばへと酸素ボンベを置き去りにしたオーナーが近寄ります。そうして頭を優しく撫でました。


「面白い止め方ね。普通、自分の血を見せて正気に戻そうとするかしら?」


 井草道子が言います。

 やかましい。

 わたしは黙って睨むだけにとどめます。それから踵を返して先生のところに戻りました。

 このまま帰るかと思いきや、彼は動きません。まだあるみたいです。えっ、なんかあったっけ……。ああ、確か――


「あとコレの話もしなきゃなんねえか」


 先生は懐から二枚のメモリーカードを取り出しました。

 支配人が目を見開きました。


「おォい支配人さんよ。このデータ、一体誰がどうして苺に仕込んで受け渡ししていると知った?」


「リ、リーク情報があるって……メールが……、船に招待した情報屋に隠ぺいを頼むため苺を目印にデータを渡すって……」

 ひ……ひど!?

 そ、そんな分かりやすい罠に引っかかったんですか!?


「いやそれ完全にテメエをロックオンして吹き込んでるだろが! そんなまどろっこしくて第三者の手に簡単に渡るような方法で渡すのかテメエはよ!」

「ひぃ」


 先生が珍しく渾身のド正論ツッコミをしました。

 よく考えなくても支配人狙い撃ちで『奪ってね』と言っているようなもんではありませんか。


「データ自体は動機付け的な位置だと思っていたが、そんな見え見えの罠に引っかかるおつむの弱さだから犯人だってバレちまうんだよ。探偵漫画でももうちょっと犯人は頭いいぞ」


 嬉々としてボロクソに言わないでくださいよ先生。

 ただでさえ一番おいしいところかっさらっているんですから。


「まあまあ、あまり怒らないであげて。突然の好機を前に我を失っただけなのだから」


 井草さん、煽る煽る。

 ここまでくると支配人さんが可哀想になってきます。先生に危害を与えようとした点については許しませんけど。


「どうせババア共の仕業だろ。なんでわざわざあんなことした」

「あら。第三者の手に"うっかり"渡って、暁人が慌ててその第三者を殺してくれるだろうと思ったのよ。今回みたいにね」

「うまく行かなかったらどうするつもりだった」

「私にもいくつか切り札はあるもの。でも、あなたが生き残ってしまったせいでややこしいことになってしまったのは残念だわ」

「はは、そいつは失礼した」

「やっぱり死んでいればよかったのに」


 ……このおばさま、言いたいこと言ってくれますね。

 支配人に殺人事件を起こさせること確定だったみたいですし。動くと分かってやっているのならタチが悪すぎる。

 わたしの表情が明らかに変わったことに気づき、先生は小さく「手を出すな」と制止してきます。むう……。


「中身は見たのかしら?」

「ああ。知人のノートパソコンを借りてな。中身はくっだらなくて愉快な内容だったぜ」


 どうしてか、オーナーが緊張した面持ちで先生を見ます。

 内容がそんなにまずいのですかね。

 ですが先生は中身については語るつもりはないようです。ケチ。


「これさ、小さく一番二番って書いてあるんだよな。だから素直に一番から入れた。そのあと二番を入れた。そしたら――」


 たっぷり溜めて、先生は笑います。


「パソコンがクラッシュして動かなくなった。そういうウイルスが仕込まれていたんだろうな」

 へえ、パソコンが……。ん!? 知人のパソコンを借りたって言ってましたよね!?

 ま、ま、まさか知人さんのパソコンをぶっ壊したんですかこの人は!? やだーッ! お詫びしに行かないと……!

 愉快ではないのですがそれは!

 わたしのいないところで何しているんですかぁ!?


「話はここまでだ。幕だろうがカーテンコールだろうが俺たちにはもう関係ない。あとはご自由にどうぞ」


 こういう場からさっさと抜けようと動けるのが羨ましい。

 先生はズルズルと天野さんを引きずっていきます。

 彼を置いていきたいぐらいですが、ここにいてもめんどくさいだけですからね。また殺人教唆しかねないし。もう三回目ですよ、三回目。

 あっ、忘れていた。先ほどの戦闘で外れたチョーカーを拾い上げます。金具が歪んでいますがパーツを変えたら大丈夫そうですね。


「ちょっといいですか」


 色付きガラスのドアを開ける前、天野さんが声を上げて先生は立ち止まります。ちなみに天野さんは首根っこを掴まれています。猫かな?


「結局、探偵を集めて殺人事件を起こして――何をしたかったんですか? 井草さん」

「そのままよ。お嬢さんにはお話ししていたかしら?」


 無邪気に井草さんは答えます。


「探偵が事件を推理する場面に立ち会うのが憧れだったの」


 その子供じみた思想のために二人が死に、何人苦しんだと思っているのでしょう。

 救いようのないクズです。

 願わくばわたしたちの世界にこれ以上関わらないでもらいたいです。


「済んだか」

「はい、もういいです」


 先生たちはそこからは振り向かずに階段を降りていきます。わたしもついていきました。


「……先生、いいのですか。あのままにして」

「探偵は解決するだけだ、そのあとの人間関係も後処理も俺たちには関係ねえよ。本物のオーナーもやる気なくなってるだろ」


 そうですよね……。


「まずは医務室に行くぞ。お前ら、何をどうしたらそんなぼろぼろになるんだ」


 なんででしょうね……。


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